じっくり読まれることの必要性

2 の 手段


人に知ってもらう方法

店頭に置かれた本は売れるのか?


書店の場合、出版社からの依頼で置いてくれることはあるが、注文は出版社へではなく、取次店へである。あくまで取次業者から注文して店に置くことになり、その数も1冊である。万一その1冊が売れたらターゲット本は書店からなくなる。
 

書籍流通の疑問

店頭に置かれる本、置かれない本……書店が決めている
大手流通業者=大手出版社 は書店に置かせる力がある

日本の流通制度

問屋制の利点 ; 出版社は流通拠点の数ヵ所に配本すればすむ
〇店頭に置く置かないは書店が決める…つまり、飲み屋に例えれば「常連さん」「お得意さん」ということであろう。零細出版社はさしずめ「一見(いちげん)さん」ということになろう。
〇書店は出版社との直接取引はしないとされる……なぜ?
〇つまり出版社は、問屋を介するほか、流通手段がない。本を店頭に置いてくれるかくれないかで、売れ行きは明確に分かれる。置くか置かないかを決めるのはたしかに書店の自由である。
大型取次店(問屋)は本を店頭に置かせる。
零細出版社にその力がない……これらは独占禁止法に抵触しないのだろうか?

飲み屋の「常連さん」。この区別を今も書店の慣習として続けられている。たいていの店は一見さんにも同じようにサービスしてくれるが、「一見さんお断り」の店は、その主義としてそうなら、自由である。










お客が店内を歩き回っても、見えない本に手が伸びることも、選ばれることもない。そういう本があると知らない人が、その本を探し廻るはずもない。実際に統計をとったものが存在するかどうかは知らないけれども、その本を知らない人が買い求めようとしないのは道理であろう。
客自身が知っている本なら、書店で注文できなくても出版社へ注文したらよい。店で買うにしろ出版社へ注文するにしろ、人がそのような本があると知ってもらうことが必要だ。店頭に置かれるときはその両方が達成される。当社に限らず、後進の零細出版社が救われる仕組みが求められよう。




人がそのような本があると知ってもらうことが必要だ。知ってもらう方法に、新聞広告や雑誌広告などがあろう。人に知らせること―広告―は本を売るための最初の必要条件になる。
しかし、小さな新聞広告では、本の内容にいかに重要なことが書かれているかを知ることは難しい。また、その本のタイトルが「物理学だね…」と分かる時点で、買いたいと思う人はごく限られることだろう(内容がどうであろうと)。




物理学だと分かっても買いたくなる人は、ごく限られることだろう。
よく知ってもらうには、出版社が独自に行なうホームページへの広報もあろう。
そこで、ホームページで、ある程度まとまった量のページ内容を開示するのがよいかと考え、一般に向けて一部掲載することにした。何故ならこの本の内容は、何となく分かってくれればよいという種類のものではない。落ち着いてじっくり読みたい内容である、と分かれば、本の現物を注文したくなるに違いない。この本は世の中の人たちの頭の中に納められ、大切に数回にわたって読み見直されることが望まれる。






物理学書は、理路整然と理屈が通っていなければならない。矛盾があってはならない。遺憾ながら、明らかに理屈の通っていない学説も多くある。読者にはこれを見分ける自由および権利がある。
この、読者の自由に訴える書物は排除されるべきと一般に判断される著者の地位、例えば「大学教授」「有力大学卒」「学位」等々がある。しかし、聖書に著者名がなく、神の言葉に神のサインが書かれていないように、正しいものに学位などの資格や地位は必要ではない。この書物の著者経歴はほとんど明らかにされていない。その必要は全くないからである。読者が正しい記述を正しいと受け取る力はその人のものであり、権利である。本が展示されるのを拒み隠す権利は誰にもない。

よく読んで理解され、咀嚼され、自ら見立てられた新たな論説にも、筋の通った理屈によってしか否定される筋合いはない。それが真の学問ではないのか。無視をしたり否定したり、周辺に対立的な種類の学説や書物をうず高く積みあげようとする傾向は、快いものではない。
しかし、良きにつけ悪しきにつけ、書評はうけたまわりたい。