代表者の時評      





 
 
    原発は やってはいけない
 
 最近、原油不足からくる電力不足をみ旗に、原発を動かさなければと言い出す人がいる。

 原発とは 
放射性元素の核崩壊は核自体がおこしているものであって、人はそれを濃縮して互いに接近させることによって、人為的に崩壊頻度が高められた核自体の連鎖反応として高いエネルギーを得ている。その速度を緩めるための操作とは、放射粒子を吸収して反応を弱める制御棒を、差し入れるのみである。

 原発の稼働を止めるために原子炉でできることは、最もうまく行った場合に、核の自然崩壊までに落とすことである。崩壊をまったく止めることはできない。制御システムに不具合を生じたときは核崩壊が暴走し、ついにはメルトダウンを起こしてしまう可能性はきわめて高い。
 このように高くなった放射線の嵐のなかに、(操作技師の)人命をいけにえとして投じることをするのでなければ、爆発の危険に対処することも出来ないことを意味している。だから、このような人道に反する産業機械は、建設してははならない。政治や世論を勘案して決める問題、ないのだ。

自然現象である核崩壊を止める人工的な方法はない。これまでのところ、産業技術に関しておこる問題を、政治的判断だけでなんとか収拾できてきたのは、それが機械の暴走を止める方法を持っていたからだ。工場などの電動設備での問題なら、電源を切れば機械が動き出して起こす事故は防ぐことができよう。微生物や薬物なら、密閉したビンなどの容器に入れておけば、手にとってみても安全だ。自動車なら燃料を断てば止まる。エネルギーを提供する機械はみな、なんらかの危険性を伴うものだ。「利用のためには危険が伴う」として、大抵のことを容認してきたのは、これらのものはその危険をいつでも断つことができるからで、原発だけはそれができない。放射性元素の核崩壊は、人工的に止められない、原子核が持つ自然の性質だからである。

――人間社会の最も大きい危険は、物理学を学んでいない分野の人がこの社会を構成し運営していることにある

核物質に人が近づくことはできない。あの白い服は気休めだ。汚染環境では、裸でいるのと同じだ。現場を離れたら、服に付いた塵から遠ざかるために、急いで脱ぎ捨てなければならない。

完璧な制御の自動化など、できっこない。自動制御の故障がたとえ0.1パーセントに満たないとしても、おこらないといえないものであるかぎり、決して人のための利用はすべきではない。その安全性を高めるための省庁をこしらえることは、意味がないばかりでなく、有害である。再び言おう。――恐ろしいのは、この社会を取り仕切るのを、物理学を理解していない人たちに任されていることだ

原発コストはほんとうに安いのか?

原発による電力の製造原価には、次のことが含まれていない。1.核廃棄物処理費 2.核物質汚染による被害者への補償費 3.事故による損失 4.周辺(住民、農民、漁民)に与える風評被害額。
 すると原発のコストは、ゆくゆく、電力会社とは関係のない国民への課税負担と被害者による負担によっている。

しかも、電力会社役員給与は他の平均的な企業の3~4倍、中小企業に比べれば10倍と聞く。東電に対する怒りは
抑えきれない。
原発なしには生活に電力が不足するから必要、就労の場になっているから必要、経済成長のためには必要、という必要論の天秤にかけて決めてよい問題ではない。まして、政治家による権力が決めてよいものでも、経済界のドンたちが決めてよいものでもない。


しわ寄せされる景気対策
景気対策の妙薬のように繰り返し繰り返し唱えられるデフレ対策必要論は、折にふれ国民に刷り込まれている。おそらく国民の多くが、必要なのだと信じているだろう。だが、デフレ対策(デフレ抑制策)は余生のためにわずかな金を貯金している貧しい高齢者、あるいは年金生活者を、たとえば私のようなものを、さらに貧しくさせるための方策だ。代わりに、何かを生み出すことのできる財貨を持った財界人たちには、有利な論理だ。借金を目減りさせたい政府に有利な論理だ。

  資源のない国では、労務費が安くなければ他国に伍してゆけない。ところが、大企業は資金に任せて人件費の安い国に出て稼ぐことができ、そうした役員給与の豊かな儲かる企業にとって、インフレはぼた餅となる。インフレは(大企業の)帳簿の見栄えをよくする。製品に、労せずして高い値段がつけられるわけだから。労働賃金は相対的に低下してゆく。こうして貧富の格差を拡大させる。これが、財界―経団連―が、進めようとする景気対策の(大企業のための)正体だ。こうしたメカニズムによって、国民は刷り込まれたことに気付かず、自分の希望はこうだったのだ、自分の世論だ、と思い込まされるのだろう。訳の分らぬまま、デフレ脱却によって景気を良くしてくれるはずの政党に投票し、格差社会を進める。社会における間違った常識の例だ。