第3章 近代物理学

絶対空間は あるのか

相対速度 (relative velocity)

物体の質量とその運動速度との関係をニュートンの運動力学として見てきた。ときに破壊的な作用としてはたらく“運動物体の勢い”をわれわれはどう見るかというと、われわれの物理学では物体の質量mの大きさとその運動速度υが関係づけるとし、それらの積mυをもって“運動量(momentum)”と呼び、これがそうであるとした。この運動量になるまで、つまり、運動量がゼロから微小量mdυずつ増加しmυに至るまで、の和

  mυdυ= 1/2mυ2 =(1/2mυ2

 をもって“運動エネルギー(kinetic energy)”とされる。この量は、物に力を加えつつその方向に移動させた距離に比例する量を“仕事”と呼ぶことにすれば、この量と等量であることが知られている。つまり、例えば滝を落ちる水の運動エネルギーを、機械を動かすのと等量の“仕事”に変換することができる。

それゆえ、運動している物体の運動エネルギーは観測される物体の運動速度と質量から算定することができる。そのエネルギーは運動速さが変化しない限りは一定不変な“絶対量”であろうか? 実は物体の運動エネルギーは、これを観察する人(あるいは空間)ごとにそれぞれ違っているのだ。その例を見よう。

 わたしはいま、駅で停車している上り列車(質量mトン)内に居るとしよう。窓から手が届きそうなところに下り列車(質量Mトン)が見え、まさに発車しようとしている。わたしから見えるその列車は一分後に時速υの速度に達した。この列車は運動エネルギーとして今や(1/2) Mυ2を持っているに違いない。これはホームに立って観察する者にとっても同じ(1/2) Mυ2であろう。
 だが、私の列車が停車中ではなく上り方向にυの速さで走っていたらどうか? 下り列車の速さは2υと速くなって見えるはずだ。その運動エネルギーを計算すると(1/2) M(2υ) 2 = 2 Mυ2 ということになり、最初の(1/2) Mυ2とはまるで違った量としてみえる。つまり物の運動エネルギーは見る者がどこにいるかで変わってくる量なのだ。その原因は物体の相対的運動速度による。
 わたしが相手の運動エネルギーを計算するためのそれらの運動速度はホームから見て 自分、ホーム、相手の順にυ、0-υあるいはわたしの車中からは0-υ、-2υと、時と場合によって変わる。自分がどれを基準にした時に彼らの運動速度がどう見えるかが“相対速度”である。ホームの運動速度も下り列車の運動速度もみな“相対速度”なのだ。
 自分が静止していると思った駅のホームも、地球の中心から見たときには運動して見え、月から地球を見たときの駅の運動も違って見え、太陽から見ても違う。これらのことから人は大抵“絶対速度は存在しない”と結論づける。そうだろうか?

間違った例の話をしよう。一般には、相対速度とは、ある物体の運動を別の運動をしている観測者から見たときの速度である(ウィキペディアでの説明)と言われる。これは間違いではない。続く説明によれば、ニュートン力学では宇宙における絶対静止座標が存在しないので、あらゆる速度は常にその時々の観測者からみた相対速度であるとある。これも正しい。
 しかし、衝突のような物体間の相互作用については、観測者がどこにいるかに関係なく、両者間の関係当事者からみる相手の速度であり、これを相対速度とすべきであろう。実はその際にも絶対速度は存在する。
 物体の絶対速度を知るには、地球や月や太陽のように運動しているものではない“絶対座標”を知る必要がある。次の課題は絶対座標つまり絶対空間はあるか?という問題になる。意外なその解は 第4章に譲ろう。

運動の本質
アインシュタインによれば“光速不変”(光の速さは誰から見ても一定である)とされている。
  光速という得体の知れないこともさることながら、運動というものからして、われわれはよく把握していたのだろうか? われわれはいったい何に対して運動しているのだろうか? 運動とは、他との単なる時間的位置関係である、という考え方をしていないか? その表記を座標という、人が考え出した幾何学的道具によってすれば、運動の何たるかを解明できると考えてはいなかったか? あの物体がわたしに及ぼすであろう影響は、不幸にもあるいは幸運にも、あれとわたしが衝突したときだけである、と。すなわち、あらゆるものの勢いとは、わたし自身に対する勢いにかぎる、と。
  われわれは次のことなら知っている。運動する物体は「勢い」というものをもって、その勢いで他を動かし、その勢いを分けてやれる。あれは他を打ち砕き、熱に変え、無数の火花や放射線に一変させる能力をもっている。だが その観察を、座標という幾何学的道具によって解明できると考えてはいないか? もしかすると運動そのものよりも、その裏によこたわる驚異のからくりが存在して、われわれはそのことに気付いていないのではないだろうか。われわれは知っているつもりでいた。外力をうけない――そもそも外力をうけないということがあり得るのか?――ものは等速で直線運動をつづける、と。それで、直線をどのように認識しているだろうか? いまここで問うのは、一般相対性理論などが仮想する時空間の歪み、といったわけの分からない空論は期待すまい。
 ここに一個の磁石があるとしよう。われわれの観察によれば、この磁石は特別な作用をもつなにかを周囲にまとっている。その“纏(まとい)”と磁石とは別々の動きができるだろうか。その磁石を遠くへ放り投げてみよ。その“まとい”たる磁性は元の場所にとどまるだろうか? そうではなく、共に飛び去るだろう。
 その飛び去る先に閉じた誘導コイルが置かれていれば、そのコイルは、まだ磁石がぶつかりもしないうちに微動することが知られている。この微動を与えるだけの影響を磁石自身も受けるだろう。また、磁石が投げられる前に存在していた場所の近くに、別のコイルがあったとしよう。そのコイルもまた、磁石が遠くへ投げられるとともに、なんらかの影響を受ける。この二つのあいだにも直接的な接触はない。
 すると、二つの物体の運動によって起こることは、
……中略……

このように“場”の相互作用によって生じるものが物質の物理現象であり、目に見える“運動”は、その結果生じるものであるとみるべきではないか。したがって、二つの物体同士の運動が、どちらから見ても同じ、などとは大雑把に過ぎよう。

 また、さっきの、くるりと回転することから生じる振動は、その磁界や力場という“まとい”とともに起こっている。その振動が空間に対して磁界と電界の相互作用を生じさせるとすれば、それらはコイルの“まとい”のなかに生じ、コイル本体と別々の行動はしないだろう。
 興味深い例を見よう。トイレットペーパーを使い終わると中空の芯が残る。これに導線を巻いて電流を流せば、どんなことが起こるだろうか。棒磁石は磁荷という物質から磁場がつくられているように観察される。棒磁石は磁気を帯びた鉄の棒であるが、ペーパー芯に巻かれたコイルは鉄心を持たない中空な磁石となっている。その中空コイルは磁針を一方に向けさせ、磁性金属を引きつける。コイルの巻かれたこの中空な磁石は、引きつけた金属をそのまま穴を素通りさせてしまうことができる。棒磁石のような実体がなくても、磁場は存在することができることを、自分のこの目で確かめることができた。
……中略……

絶対空間

絶対静止空間なんかない、というのが一般での常識だ。われわれはこの空間で現在どの向きにどんな速度で運動しているのだろうか?  光がいま何に対し、どの向きに、どんな速さで進んでいるのだろうか?……中略……
 われわれはその基準にできそうな動かない空間を求め、何かしら“絶対静止空間”あるいは“絶対空間”と呼んでいる。昔からその絶対空間はあるのかという議論が続けられてきた。そしてついには口を揃えるように皆、「絶対空間なんてものはない」と言う。ぼくたちもまた口を揃えるべきだろうか? われわれは確かに、ある何かを基準にすれば、これに対する物体の運動方向と運動速さ――このひと組“方向と速”を“速度”と呼ぶことにすれば――は確定することができ、これを“相対速度”と呼んでいる。同じ物体の運動速度が何を基準にするかで異なり、これを“相対速度”と定義しているわけである。人々はこの“相対速度”しか存在しないと考えている。……中略……

慣性座標
 物体は物質の量として“質量”を持つ。この物体にいかなる力も働いていないなら、その瞬間にその物質が存在した空間で静止しつづける。あるいは等速度で運動をつづける。これはニュートンが発見した自然法則のひとつである。このとき選ばれている基準空間を慣性系あるいは慣性座標という。
 この慣性系において物体が他から力が及ぼされない限り、等速度運動をつづけようとする自然の性質があってこれをニュートンの“慣性の法則”と呼ばれている。
 もしこの物体が何者かによって力を加えられると物体の運動速度が変化し、その変化率は加えられた力に比例する。速度の時間当たり変化量を“加速度”と呼ばれ、均一な力による時間当たり均一な変化量を“等加速度”と呼ばれる。

さて、運動体を記録する慣性座標は物体の一瞬における位置に対して一義的に定まる。この慣性座標が初めの位置から動かない(静止している)とすれば、逆に物体はこの座標に対する運動速度を持っていると考えることができる。
  ところで、われわれが物体の周りに定めたはずの慣性系にあって物体がひとりでに動き始めた(速度が変わった)としよう。するとこの座標は“慣性系”ではなくなることになる。こういったことは起こり得るだろうか? じつは起こり得ることなのだ。

相対性理論

マイケルソン=モーレイの実験 相対論の発端

20世紀の近代物理学が生み出した最もセンセーショナルな学説はアインシュタイン(Albert Einstein 18791955米)による“相対性理論”であると言ってよいだろう。  1905年の特殊相対性理論と1916年の一般相対性理論である。物理学者たちの頭脳を新しい方向へ激しく揺さぶったものだったには間違いない。遺憾なことに、その方向は珍奇すぎていた。
 マイケルソン=モーレイの実験1887年、マイケルソンとモーレイが、公転運動をしている地球において、方向による光速差(光の相対速度)を観測しようとした実験である。
  “マイケルソン干渉計”と呼ばれる装置は、水平に置かれたL字型のアームに沿って、アームの隅角から入射した光を、45度傾斜したスプリッタ―(ハーフミラー)によって90度曲げられたy方向のものとそのまま通過直進するχ方向のものとに別け、共に等距離行って反射鏡で戻される光を再びスプリッタ―によって合流させ、両光の光路差を観測するものである。光路差は、干渉計によって光波の山谷の重なりで生じる干渉縞が、1波長につき1回、明暗を繰り返すことから知られる。……中略……

しかし、実験の結果、マイケルソンらは、χの向きを公転方向へ向けても、実測値は彼の計算のわずか2.5%ほどしかなく、これは公転速度の1/6しかない。この差は実験操作による誤差であろうと考え、光の方向による相対速度は検出されなかったと発表した。これを知った学者たちが驚き、大騒ぎになったことは言うまでもない。このときまだマイケルソンは大きな思い違いをしていることに気づいていなかった。
 これを基に、それから間もなくアインシュタインによって「光速不変」が提唱され、“光速不変”から起こる矛盾を埋めるための様々な説明がなされた。これが1905年の特殊相対性理論およびそれから10年後の一般相対性理論である。これに伴い、光の媒質とされる「エーテル」は存在しないとされた。
……中略……
(書物では簡単な数式が書かれていますが省略します)
……以下略

通説は本当か ……つじつまが合わない「二大疑惑

宇宙膨張説は本当?

驚くことに、宇宙膨張理論は少なからぬ学者によって本気で信じられている。真面目に考えればそのようなことはあり得ないはずだ。そこで私は「光に関連して言われる宇宙膨張説には矛盾がある」と、あるかたに書簡を献じたことがある。それが一般の人にあてたものだけに、易しく書けていて、改めて厳めしい書き方をするよりよほど分かりよいからそのまま述べたい。

《K様、しかし、私たちの『幻子論』では、光波を伝える“エーテル”が独立に(物理とは無関係に)存在するのではなく、物質が物質の存在と同時につくっている「場」を、場の性質の相互作用という“振動”として光は走る、と唱えるわけです。
  このことは、地球がどんな高速度をもつ可能性があるにもかかわらず、いかなる方向にも、とくべつ色づいて見える(波長が変化する)こともない平穏さを持っていることと矛盾なく説明することが可能なわけです。

私、暇になると色々頭に浮かんできて困るのですが、いま、地上に高さHの電柱が立っていて、電柱の頂上から上空χにあるPなる地点を想定します。それを空間の一点とします。この電柱からχまでの空間はビッグバン理論によりますと、他のいたるところと同様にkなる率で膨張しているわけです。つまり次のある瞬間にはχよりkχだけ高いところにあるわけです。ところが空間は全てがつながっていて、当然ながら、その電柱が立っている足元の地面からPまでの距離(H+χ)もまた、同じ率の等質膨張でなければなりません。地面からPまでの空間も、次のその瞬間には(H+χ)にkを乗じただけの空間の膨張がなければならないから、その点は電柱からの膨張量とはkHばかりズレて存在することになるのです。つまり、空間の等質膨張だけでは矛盾のない膨張は不可能で、電柱自体も膨張するとしなければ理屈に合いません。電柱という物体をつくる分子・原子のサイズも、またそれらの相互間距離も、膨張していなければならず、何もかも、つまり“膨張”を測定する定規そのものも膨張していて、膨張を確認することができないわけです。するとドプラー効果も起こりえないはずです。
 じっとしているのは電柱なのか? それとも電柱からχにあった一点の方か? これを誰も決めることができないわけです。その証拠にまた、ビッグバンの中心はどこか?に、誰も答えることができません。つまり、あの膨張というのは人の頭の中に作った“概念”であって、“具体”ではないからです。このように、具体をなおざりにして、“概念”だけで押し広げていくものを、……以下略

 光のエーテルは重力場であるとしてよいか
  重力場こそが光のエーテル(媒質)であると実感できそうな実際の現象について、のちに述べよう。一方では、わたしは「重力場は波をつくらない」と述べているから、矛盾があるように受け取られるかもしれない。しかし、それは純粋な重力場に関しては、ということだ。重力場が他の種の場に変換(相互作用)するとすれば、波を形成しうるかもしれないと考えている。磁荷や電荷と結合した力学的な場が“力場(ローレンツ力*)”として存在するなら、重力場がそれらの力場と同化するなどして振動を起こすことは十分に考えられるからである。
……以下略