第6章 人類の限界
生物の進化
DNAとRNA
DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体になる核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。DNAとRNAの化学構造の違いの第一は「RNAはDNAに比べて不安定」である。両者の安定の度合いの違いが、DNAは静的でRNAは動的な印象を与える。人で云えばRNAとは人の好奇心で、DNAは本人の人格にあたるようにわたしには思われる。……中略……
進化とは
分子論的にみれば、進化とは有機体の各要素間がより都合のよい組み合わせとなることであろう。有機体が極微にもつ遺伝子は、その具合のよかった組み合わせの通りに繰り返し、維持するプログラムシステムである。たとえばDNAはそれを支えている。
一方では具合が悪かったために、RNAのように次の繰り返しの前までに壊滅するものもある。なぜ遺伝というシステムができたのだろうか。
“存在の進化”のマトリックス……中略……
遺伝や進化に“目的”はないとわたしは考えている。あるはずがない。すべては自然現象なのだから。まだ脳が形成されていない精子や花粉が、なにか壮大な目標とか野心とかを持って頑張っているとは思えない。うまく適合したものが生き残っていくものであろう。
治癒は生物個体自身が自己の意志によってなすことはできない。その“組織”が意志を超えたところの働きをするのだ。分子配列が
“元通りに(予定された通りに)並ぶ”という性質によってである。
人間はなぜ学問をするのか
人はなぜ学ぶのか、つまりそれは宇宙の持つ本能であろう。その組織の細胞レベルが脳・神経であるとすれば、生命組織レベルで動物(脳と臓器機関との連合)を形成し、環境に対し能動的に働きかけ、それらが群れとなって社会を形成している。それが実際の環境にあって人類の現状があり、それが地球の現状である。
もし存在の進化のマトリックスが前掲の表のようであるなら、人類が存続する上では、もっと慈愛と高い精神性を持ち、もっといろいろなことに配慮が行き届くようになると想像される。それが人類のとるべき進化の道であろう。しかるに、もしも極悪非道な知恵がはたらき、専ら自己のためにのみ弱いものや年寄りを騙して、その生命の存在を脅かすような人物が現れるようになるなら、神は人類をいったん壊死させ、作り直しをするであろう。人類はそのことを予見し反省し、学び実践しなければなるまい。そのために人間は学問をするのに違いない。もしもこれらの収斂が神のコントロールによるものなら以下のようであろう。脳がさらに発達してその神経反応の多様性と組織の厚みを持つようになって、自他の写像性――人の心理で喩えれば“思いやり”――が顕著になる。そして自身は公正を希求するようになる。一見公平に見える現代社会で、しばしばその自由主義がもたらす富や権力の集中がつくり出した社会格差、とは異なり、“収斂”は太陽のように他に恵みをもたらすものになるであろう。欲望の対象が変化してくる。すなわち価値観の進化である。他から搾取する結果でではなく、与えられて成長するものとなる。決して一方的な権力が行使される結果ではない。こうして全宇宙に与えられてきたことの成果の例に、われわれ自身が満天の宇宙に見る恒星(活動している重量天体)や天体たちがある。これを動かし、司るのは神の意志である。すべては物理の本性に根づいている。
物理学の壁
科学の本質
例えば真空中を光の進む速さcは毎秒30万キロメートルと知られている。どんな科学理論でもこの光速の値は変わらず“c”と呼ばれ、これ自身は概ね正しいであろう。2016年現在の最先端物理学において、“動きながら観測する者にも同じcである”とされ世界中でその認識は正しいとされている。ただしこれは相対性理論に基づかれている。
……中略……
c + v = c という、理論上きわめて奇妙な矛盾が起こってくるのだが、このことをどう解釈したら*よいだろうか。もちろん、相対論者はシンプルではなく奇妙で複雑な計算式を考案している。それは相対論式考え方から来ているから、外部からの疑義は通じない。合理的で厳格な議論は、相対論的に間違っているとされるから議論にならない。
……中略……
認識と修正
発達してきた人類の知性はより正確な認識を学問(科学)として積み重ねるようになってきた。ところが知性は誤った認識をも積み重ね、展開させることもする。学位を得るために急いで書きあげられる論文の多くが、他の論文に新たに肉付けして展開するという手法を採っているためである。
誤りの発覚が必ずしも学論を壊さなくなったのはなぜか。これでは学問たるものの信頼性を損ねるものであろう。事実を見ようとせず、見ても既得の事実を見直そうとしないのがどうやら人類の性癖であるらしい。それがなされようとするときのことを考えてみよう。……中略……権威にとって見直しは神通力の損壊である。人がいったん口にした主張を取り下げ修正するには、相当の度量の広さと勇気が必要である。失言の訂正は自己の利害を考慮して、利があるときにのみ行われるのが普通だ。権威はその現実性・実効性が常に正しいことによって強化されてゆくはずであった。……中略……
権威の圧力
わたしは光に関する矛盾を解決し、相対論の迷いを終息させるのがよいと感じ、いろいろと模索してきた。光速に関する論文を、物理学会やNature誌へ発表しようと試みたが、叶わなかった。わたしにとって、この困難は凄まじく、あと千年を待つ心構えが必要だろう。ことの重要性を提起するためにも、要点部分を日本物理学会へ提出しようとしたのだった。
光の速度に関し、現在はなはだ不合理な仮定がなされていて、音波における「空気」のような、光における伝播媒質――エーテルと呼ばれる――は存在しないとされている。そして、エーテルは存在しないという前提に立って相対論が考えられ、そのあちこちで具合の悪い証拠が現れる。にもかかわらず、相対論は多くの科学者たちの間で、最高の物理学であると信じられているのだ。
実のところ、光速問題はアメリカのマイケルソン博士がすでに解決している。わたしが今回提出しようとした合理的な解釈に立てば、彼が生涯探していたエーテルはたしかに存在したのだ。マイケルソン博士が探し求めていたエーテルはこれである――論文の公表を通してマイケルソン博士がすでに見つけていたことを明らかにしたかった。……中略……すでに述べたように、相対論は蜘蛛の巣のように現代物理学の先端付近でこんがらがって、これを取り外そうとすることは容易ではない。学府内部に居る人たちよりも、外部に居るわたしのような者が比較的やりやすいだろうと思われた。内部の人がやろうとすると、免職になる惧れもある。現役の人にはなかなか難しいだろう。
光より速いニュートリノと標準理論
2011年に名古屋大学など国際研究グループは光速を超えるニュートリノの観測結果を発表しようとした。スイス・ジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究所(CERN)の実験棟から約730キロメートル、イタリアの地下研究所まで飛ばされたニュートリノが、光より早く到達したという実験データが9月23日、公表された。その発表があってすぐ、実験は信頼できるものか?という反撃が出された。発表から2ヶ月が過ぎ、その後、より精密に調整したニュートリノビームによる再実験でも、やはり光速より速いという結果が出た(日本経済新聞11月24日夕刊)。
だが翌年ついに彼らはそれへの圧力に屈服する形になった。……中略……
ヒッグス粒子
1964年にピーター・ヒッグスらは標準理論に“自発的対称性の破れ”を応用することでローカルゲージ不変性を保ちつつ素粒子に質量を与えることに(*理論上)成功した。(*は筆者が加筆)
副産物として“ヒッグス粒子”と呼ばれるスカラー粒子が予言された。
さて7月4日発表の「ヒッグス粒子を発見した」とは何をどのような形で見つけたのか門外漢のわれわれにはさっぱり要領を得ない。……中略……
体制の壁
現体制においては、新しい自然法則を公表するには困難がある。この際、人類の限界について考えてみたい。学問の発展が阻害されている原因を探ろう。それはこれまでの体験から次のように知られる。
1つに、論文の大抵は既刊論文を基幹としてその先へ展開されたものである。このような場合革新的考えの現れようがない。それは多くの文献参照から成っている。また、学説の可否はすでに学位を持った権威たちの判断によって決められるのが通例である。……中略……
ジャーナルの壁
わたしの実体験からお話ししよう。科学ジャーナル誌Pの場合は最終的に掲載を拒否した。思えばひしめくジャーナルの中から、物理学上の材料を、医学がメインであるPに求めてくる人が何人いるだろうか。光速問題をここで漁る研究者がいるだろうか。ポケットからこぼれた物を、広い砂漠の砂の中から研究者の適切な目が見つけ出してくれるなど、満たしえない希望ではないか。そして現実には海外ジャーナルも偏見を持っていて、既得の権威者にへつらっていることが分かった。P社から一時的に受信した「あなたの原稿が我々の注目をとっていて…」からすると、話題になっていたことが窺われる。
それ以後の長い空白はおそらく、先生方のもめる論議で、これを公式化することについての科学界への影響が考慮されたために違いない。また、この論文がいったん‘是’とされた証拠としては、
……中略……
わたしの感想を言うと、たとえ疑問のある説でも、明確な誤りがない限りはこういう意見もある、と紹介するのが筋であろう。説が正しいかどうかは読者に委ねたらよいではないか。学会誌とはきっぱりと独立し、刊行することこそが、ジャーナリストの使命ではないのか。……中略……
○ 相対論を見直す学者はまず現れまい。なぜなら、学者になるためには現体制の大学を経由(単位修得)しなければならない。“既存の学説は正しい”ものとして各単位を履修しなければ学士、修士、博士の学位を取得できず、それらの単位の1つである“相対論”は正しいとして取得することになる。
また、その指導教官はそのように取得してきて得られた博士とか教授とかいう身分の者であって、自分が立っている相対論に反する課題を研究しようとする学生を研究室に招こうとはしないであろう。
○ 相対論に対立する提唱をするには現体制の外からアプローチする者でなければありえず、ところが、前述のとおり外部からアプローチする者を現物理学界は受容しない。
自然法則の発見さえ
論文審査の過程で、論文に付した参考文献や先行議論の少なさが指摘されることがある。だが、こと自然法則の発見に、先行論文が乏しいのは当然だ。これまでとは違う新しい見方、すなわち一番初めに気づいた理解、なのだから。
著作となる大方の物理論には理論の独自展開がある。独自といっても、それは誰か他人の提唱からの発展、あるいは確認であることが多い。それは当然で、大抵のものは指導教官の研究分野から引き継がれるというのが実情であろうから。大学の研究室とは、小さな独裁政権に等しい。もし違った研究をやりだしたら、その教官から締め出されるであろう。新しい論文の前に多くの議論がなされていて、多くの問題があるとすれば、それは“理論”だからである。それらすべての理論は、実は自然法則からの発展のはずである。法則の発見自体は物理理論とは根本的に異なる。そこに先行理論があるはずもなく、自然の性質である法則こそが理論の最初の出発点となるからである。
自然法則の前に人類による理論はない。したがって自然の法則は至極シンプルだ。最初に生まれた約束に、複雑な高等数学が組み込まれているはずはあるまい。組み込まれるべき要素は、孤独なただ一つのこととして生まれるに違いない。この原始的な法則たちの複数が絡む現象、として自然的に発展しているシステムを分析し理解することが、学問であり物理理論であると考えられよう。それは法則のあとから学問として展開される。それゆえ、自然法則は最も単純なものである。
ニュートンの万有引力の法則、運動の法則、エネルギー保存の法則、アルキメデスの浮力の法則、オームの法則やレンツの法則、そして最も新しい“光速の法則”、みな言語の数行で表現しうるほどにシンプルである。すべて神(自然)が与えたものだ。したがって自然法則の発見あるいは発表には著作権が与えられることはない。法則は人類はじめあらゆる生物たちに与えられたものであって、しかも我々が知るように、人類が気付いた法則は人類史上にも数えるしかない。物理学はみなこれらの上に築かれ、発展する。
ショーペンハウエルの言葉を借りれば、
――ひとり真理のみが、たとえしばらくは認められずあるいは息をふさがれても、あらゆる時代を当てにすることができる。 なぜなら、内からほんのわずかの光が射し、外からほんのわずかの風が通ってきても、ただちに誰かが現れて、真理を告知しあるいは擁護するからである。すなわち、真理はどれか一党派の意図から発したものではないから、いかなる時代にも、優秀な頭脳の持ち主はみなそのための闘士となる――
――天才をほかの頭脳の持ち主の間においてみると、それは宝石に混じった紅玉のようなものである。ほかの人々は、よそから受けた光を反映しているにすぎないが、かれは自分で光を放射している。 …学者とは、多くのことを学んだ人のことであり、天才とは、何人からも学ばなかったことをはじめて人類に教える人のことである。――
学論について
――科学論争における主張の正当性はもっぱらその根拠の合理性によってのみ評価されるべきであり、発言者の人種、信条、性格、社会的身分、門地、学閥、学位、境遇、財産によって左右されない。
競合する解釈が積み重なっている状況で、ある論理に関する解釈の多勢性、権威性を強調しすぎると、学問の真理性からは好ましくない結果が生まれるおそれがある。
この場合にも、そもそも学問は理論の真の真理性を希求するために行われるものである、という大原則を守ることで避けられると考えるべきである。