はじめに

われわれはいま、21世紀の時代に生きている。物理学はとうとう行き詰まった。いま人は、物質が原子から成ることを知っている。複数の原子たちが組み合って分子という構造をつくり、分子がつながった有機分子、そしてそれが生物の組織と臓器を形成し、臓器とその組織が別の有機分子を消化して生物活動とエネルギーをつくり出し、知恵をつくり出し、蓄積し、知識体系と文化を創成した。人間の働きとして文明を発達させ、生まれ育った地球から、別の惑星へ旅立つまでになった。

微小へ向けては 顕微鏡でも見ることのできない原子より もっと小さいものとして素粒子を考慮し それらの挙動も推理する。これら微粒子といえども、いかにして存在することになったのであろうか。
 物質の根源的な性質からくる “物質たちの決まりごと” を究めようとする 真に論理的な学問として物理学が始まったのは つい最近、ニュートン力学からである、としてほとんど差し支えないだろう。
 力と運動と質量(物質の性質とその量)との関係が一応は把握された。その物理を考察するためには 紙面に記述される。物体の運動の速さは 紙面に対する移動量 として記述されるから、物体の最も小さい点をペン先の一点で表現し、紙上に書かれたその“質点”の動き として論述される。かくして、物体の運動は紙に描かれる。

音波は空間に広がった媒質中を伝わるけれども、物理学的に表現するには、やはり紙面に描かれる。実際の媒質は静止した空間静止座標)にあるが、記述上は紙面に描かれる。紙に対する速度(速さ)として記録されるため、しばしば錯覚を呼んだ。
 いまの物理学において、光の速さは空気や空間に対する速さではない。まして、紙に対する速さでも、むろん、ない。静止空間を定義づけることもできていない。極めて曖昧で、何を基準にしているのか判らない状況にある。なぜこんなことになったのだろうか。

率直に言うなら、ドイツ生まれの米国人、アインシュタイン博士が言い出した 相対性理論が原因になっている。その功罪はともかく、理論の基盤は“光の速さは勝手な運動をしている誰から見ても常に c (c≒30万㎞/sec)、つまり不変である”に置かれる。はなはだ奇妙である。さらにそこから導かれるという奇妙な結論の数々は、悪い冗談としか聞こえないものである。驚くなかれ、大学で有力な多くの教授たちが、これで正しいと信じているらしい。
 誇るべき物理学がこれによって流れがせき止められ、稚拙な物理学に堕している。この のど詰まりは 予想のほか大きい。世界中の科学者たちが、これで正しいことにしようと申し合わせ、新しい芽が出かかると、すぐさま踏み潰す約束になっている。信頼できるはずの学問はこの有様であり、政治や流行と変わらぬ浮薄さをもつのである。
 このままでは真の物理学は望むべくもない。いま2019年、筆者もこれまでの10年間ばかり、開かずの扉の前で悪戦苦闘してきた。若い物理学者たちが芯の通った物理学を目指して活躍できるような聡明な場の到来を望むならば、この刻を読んでみようという少数の方たちの目に止まる小さな化石として、どこかに置いておかれる必要がある。

本版ではすでに相対性理論を超え、何が正しいのか、静止座標はどこにあるのか、物はいかにして存在したのか、それらが整然と理解されようとしている。ややこしいものではない。“空間論”を 若き諸君に捧げる。自ら考えようとする諸君こそが、より正しい物理学をこれから切り開いてくれるにちがいないから。