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印刷用は省略        不定期便  第65号

     不定期便 65 01317

     光速の有限論1   012.11.20

発行
2013.1月7日
発行者
熊野宗治
 
  

 
雄大な阿蘇を、本格的にはまだ見たことがない。沿岸を走る高速バスから見る風景の、この美しいみどり(写真)は、その阿蘇の、美しいであろう自然の予告編にちがいない。




 澄んでいて爽やかで、こころを乱さない。取り立てるほどの要件があって走っているわけではなかった。ただ自然の溢れるこの九州は、わたしの故郷だ。自分の地元を珍しがらないのと同じに、わたしもやはり、九州を出歩かない。つまらぬ用件が、この代えがたい旅の契機となった。
  実体験というものは聴いて知っていることよりもはるかに感動があって、印象に残る。正隆君が最近ヒマラヤへ登ったようなことは、わたしなんかの日常をはるかに超えたものだ。実感ほど確かなものはない。ビッグな喜びだったことにちがいない。いつものわたしはといえば、
街中(まちなか)のレストランに居て、ほとんどお金のかからない一杯の珈琲を注文して、音楽を聴きながら考え事をする。とてもとても安全で、安易だ。想像
   を楽しんでいる。昼前にランチも頼んで、混む前に退室する。
 
思えば、わたしがああした美しい風景を楽しめるのは、自然に光があふれ、わたしの眼がその有様を仔
細に見ることができるおかげだ。いったい誰がこの幸福を与えてくれたものか? その根源をまた想いつづける。
 自然界に、こんなにすばらしい現象を起こす“物理”を、なぜ人は無関心に突き放しておくんだろう? 物理と聞いても、なぜ興味を持たないのだろう、こんなにも面白いことを!          
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  光とはなにか    11/9

人が最も先端的な物理を論じるにあたって、光が何であり、いかなる速さを持ち、どこを走るのかを知っておくことが重要なことになる。これらはきわめて基本的な事柄だ。にもかかわらず、世間ではすこぶる曖昧に放置されている。それはどうも、頭の良し悪しというよりも、考える主体が人間であることに由来というか、多くの問題がありそうだ。しかしこの問題はしばらくおいて、光とは何であるかを認識しなおすことから始めてみたい。

 われわれが最もよく知っていることは、物を見ることができるのは光によってである。また、光の直進性と化学作用によって印画紙に感光し画像を結ぶ。つまり、写真に撮ることができるのは光のお陰である。

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    不定期便  第65号
 光を浴びると日焼けをする。光から発電することができる。光は虹色に別れてみえることがある。透明な物質に対し屈折して進み、反射する。物を加熱すると光る。物質が燃えるとき物質特有の色(スペクトル)で発光する。岩をハンマーで叩くとき、火の粉がみえる。ガス中を電子が飛ぶときガスが光って見える。光は発光体から放たれるらしい。その速さは有限であるらしい。“その正体は何か”について、現在のところ3つの説がある。光は粒であるとする粒子説、いや波であるとする波動説、そのどちらの性質も持つとする折衷説の3つだ。
 光の性質をみると、最も顕著なものはその直進性である。光が一直線上を進む点からは、光は粒であるとする主張に分がありそうである。もっとも、波だとしても、その直進性になんら不都合はない。
 つぎに、光には回折現象がみられる。光は少しなら障害物を迂回して進むことができる。波動説に分がありそうである。2方から来た光が互いに強め合ったり弱め合ったりして縞模様をつくる干渉という現象をみせる。これは光が波でなければ起こりえないことである。迂回の性質を利用して波を2つの同じ波に別け、再び合わせることで干渉縞をつくってみるという実験は誰しもが知るところだろう。波であることを疑い得ない。そして、最も際立っている性質が、光速の不変性――この概念については後に述べるように、多くは間違った認識に立っている――である。


光速の不変性      1120

1. 粒子説からみる光の速さ
 粒子説に立って光速を論じるとどうなるだろうか。

  「光は粒子の運動である」とみるのが粒子説だ。ある種の放射線(α線やβ線など)に似た考えであろう。粒(光子と呼ばれる)の運動であるから、何かにぶつからないかぎり直進するであろうことは、光の直進性を説明するのに都合がよい。光速は粒子の運動速さということになる(粒として質量を持つから光子と言っている。するとその光子が光速を持つことになる。相対論からは質量あるものは光速に達しえない。光子説と相対論は相矛盾する。この両説を唱えるのがアインシュタイン博士だ)。何に対する速さであろうか? 安直に言うなら、その粒子が運動している空間、ということになろう。それはどのような空間であるか? その基準をどこにとるのか?

 われわれは実験室あるいは戸外の小川のほとり、というふうに、一つの空間に対して蝶や川の流れや、空を飛ぶ飛行機の速さ、風の速さ、光の速さを識別して観察することができる。これらの速さを比較するには、今居るこの空間一つで十分である。
光の速さを、この空間――観測者が今居る空間――において代数的にcと与え、実際には30万q/secという速さとしてわれわれは観測することができる。アメリカのマイケルソン博士が精密な測定によって得たc=29.9792458万q/secを基準値とされている。その速さはあくまでも空間――その空間がどんな空間であるかも諸君は聞いたことがおありか?――に対する速度と認識されている。

  さて諸君、高速で走る車中では、蝶や川の流れが、ことごとく飛び去って見えるほど、その速さは変って見える。同様にもし光が粒の運動であるなら、蝶や風の速さがそうであるように、光もまた相対的に違う速さにならなければならない。
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親愛なる諸君、以上に相違ないね? 異論あらば申し立てられたらよい。小生の論理を採られようが、貴君の考えを採られようが、ご自身がよく考えて、最も疑問の余地が少ないとみられるもの、すっと納得できるものを択んで、君は正しいとすべきだ。これから先にもず〜っと考えを進めていったとき、われわれの考えが変ったとしても、少しも恥ずべきではない。それが進歩というものだ。


. 波動説からみる        
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 まずお断わりしておくが、光の正体に関する3番目の折衷説については小生は書かない。物理は政治論や倫理問題や法律論とは違って、あいまいなグレー状態はとらない。一つに決まっている。変わるように見えることがあるのは、そのおかれる環境にあって、その環境に合った法則が(例えばわれわれが気づいた「光速の背景」のように)適用されるからである。それゆえ、小生は、光について粒子説と波動説とのどちらかを採り、そのうち粒子説には矛盾があるから、波動説で正しいとみている。

 光の性質を見るに、光速は1つの媒質中での速さは同じである。空気中からガラスへ入った光は遅くなるが、ガラスから空気中へ出ると空気中での速さにまで上昇(復帰)する。媒質密度による光速の変化は、屈折という現象になって現れる。このように媒質に入って遅くなる光が、その媒質を出ると再び速くなることは粒子説では矛盾がある。もしも粒子の運動であるなら、いくつかの媒質を通るたびに光速は遅くなっていかなければならない。

 それゆえ、光速に関する考察からも、光は波であると理解している。



 
光が波であることの補説    1120

光の熱作用 光の当る部分の温度を上昇させ る。すなわち光は熱エネルギーに変換しえる。熱エネルギーとは分子や原子の運動を激しくさせることにほかならない。分子を激しく運動させる原因の一つは、光は原子・分子のもつ電子の回転速度を速くさせ、これによって分子・原子そのものが運動を起こすものと思われる。光子の衝突が分子運動を激しく起こさせることは十分考えられるが、光の波動説特に電磁波説からは、光は原子の付属電子のもつマイナス電荷に働いて加速させることから起こると理解されよう。すなわち、光は高周波で変動する電磁場を持っていると考えて間違いないだろう。

 光のその他の働き  光が粒だとすれば起こしえない現象がある。まず、光が当るところに光は電気を起こさせる。この現象の実用例として太陽光発電がある。また、光は化学反応を促進させる。その実際例として、写真における銀析出反応や葉緑素に働く光合成を挙げられ、人肌におこす日焼けなどもそうであろう。


 
光の発生         1120

ファラデーの電磁誘導の実験は、磁場の変化によってその磁場の中に置かれたコイルに電流が流れることをみせた。

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またそれらの実験から、静磁場(変動しない磁場)は電流を生じさせないこともわかる。変動磁場によって、磁場中の電線が電気抵抗を持つにもかかわらず電流が流れることはどういうことか? わたしには磁場の変化が金属内の自由電子を動かしていると考えざるを得ない。第58号で詳しく考慮した。マイナス電荷に働く力は電位差によるのにちがいない。電位差のあるところに電気良導体が置かれているなら、電流となって電子が移動するのであろう。ところが、電線が存在しなければ電流は流れない。流れないから電圧が働いていないかといえばそうではない。電流を流そうとする能力は持っている。これが電界というものだ。ポテンシャルと呼ぶべき、何かに働いて作用しようとする潜在能力は持っている。電流を実際に流すという働きを果たさないかぎり、エネルギー保存の法則として知られるように その能力は減衰されず持ち続ける。これが場の本質だ。磁場の変化によって生じた電場にはまた、磁場を発生させる能力がある。そして磁場の発生(変化)は電場を生じさせる。このように互いに変化を伝えてゆくものが電磁波と呼ばれる波である。その波長がある範囲にあるものを、人の感覚は“光”として捉えることができる。
 つまり光は粒子ではなく、電界と磁界という、
質量を持たない場の性質変換現象であるとするのが正しいであろう。だからこそ人の眼はそれぞれの光の色を見分けることができるのだ。光は波であって、物質としての量は持たない。しかるに、運動量(質量の運動の量)を持たない。しかし、物質に働いて運動量を変化させ、分子結合を変化させる能力――場の強度――を持っている。
 この能力が植物の光合成や化学物質の化合促進の働きをするものと思われる。


   その際、光としての電磁エネルギーは化合エネルギーや電気エネルギーや熱エネルギーに変換するわけであるが、そうなる直前までの波の伝達は、波を起こしている電場と磁場に対する伝達速度を持っていると思わざるを得ない。音波における空気のような 媒質に相当するものは、光においては電場と磁場と重力場であるとするのがわれわれの新しい見方である。
  それらの場をつくっているのは物質であり、その物質が、物質場と呼ぶべき見えざる衣をまとっている。
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