前回は、考え得る光速の決め方の例をいろいろ見てきました。それぞれが自分の見方で論陣を張って、他の対象へ視点を移してみると、矛盾が生じてしまう、これらはみんな、自然法則としての普遍性が欠如しています。
これらの考察では、視点の置き方だけでその座標系を不変な光の速さの座標である、と前提していますが、重大な誤りがあるにちがいありません。正常な思考を辿っても、矛盾が生じることから、相対論が生まれたのを見ました。
光の素性
われわれは地上に建物を建設し、その内部に実験室を作り、そこで光速を計測することができます。
現在、基準とされているマイケルソンによる光速 c はもちろん計測装置に対する速さです。ふかふかな宇宙空間ではないから、堅牢な実験台の上で計測できます。疑いもなく、少なくともこの装置は地球と同じだけの運動速度をもっているはずです。 であるのに、マイケルソンとモーレィが干渉計を用いて綿密に測った
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光速は地球の公転方向でも、その逆でも同じでした。
ところで事実は、運動している発光体の放つ光速も同じく
c です。太陽光も人工の光も、宇宙のかなたなる恒星からくる光もみな cです。どんな星からくる光も、地球上の人間(計器)に対して不変に
c となるのでしょうか? それはなぜでしょうか。光の座標は地球だけに静止しているのでしょうか?
先にも試みましたが、どれかの座標に決めようとすると、必ず矛盾が生じます。考えてみたどの座標も、光の座標ではないようです。アインシュタインならずとも、ええい、光速不変だ!と言ってしまいたくなりますが、ここでやけを起こしては、やれ時間がちがうの、動いたら縮むのと、妄想の底なし沼にはまり込んでゆくところです。
一般社会の風評、いや科学者間の定説というマインドコントロールから解かれ、神の示唆する矛盾のない法則に気づくときはあるでしょうか。
われわれは学者の定説にこだわらないで、光の本来の素性から見直してみましょう。すると以前の号で考慮してみたように、親愛なる諸君、ぼくたちは幸運にも、その恵みに預かることができそうなんですね。われわれは第49号で見たように、それまでとはちがう見方で光の持つ本当の(とわたしは確信する)法則を見つけ、いや、与えられます。それは起こっていたあらゆる矛盾を見事に霧消させます。
エーテルとはこういうことだ
諸君、今のわれわれの考えはこうなりましょう。 |