C       不定期便  第84 
 
 不定期便 84 013年11月13

           相対論を超えて 
 
発行
2013年11月13日
発行者
熊野宗治
 
 前号までに特殊相対論を総覧しました。相対論は、もろもろの物理学的概念を明確にすべきことを促してくれます。
 
物理学の画用紙(キャンバス)はなにか
                 013. 1027

 

 相対論という現今の通説は、その学界で権威が与えられているだけでなく、個々の研究者はこの権威のもとでは、幅を利かせているこの理論を軽視することも、別の理論に委ねてみることもできないのであります。理論に従わないことも、いかなる疑義をこの理論に投げることも、自らの研究が学術的に受け入れられるためには、ご法度なのです。
  この学説に関して興味あることは、本論が学会によって支持されているだけでなく、他の各論の基礎的論拠あるいはまれに見られる常識的提言などとが競合する状況にあること、

    そうして権威あるほうの理論が優先権的扱いを受けていることであります。
 実際この学説があなたの理論を侵略したとしても、その奇妙な通説があなたの理論が成立する根幹に致命傷を負わせるとしても、そこから防衛する権利が自ずと与えられておりません。
 さてわたしは学術界のすべてのことが、この学説に関してうまくいっているなどとは考えたくありません。われわれはあらゆる学問的解釈において、偏見がどうしようもなく働いていることを意識している必要があります。
 しかしながら、われわれが理解しえるわれわれの理論に関して驚くべきことは、新たな真実を追求する権利、特に旧論の権威に対する自己防衛として正当に理解されてもよいものが、学会の重鎮による査読・評価といった裁定なしに是認されないその方法であります。

ところで、速度とか座標とかいうものは〈何に対して?〉ということを明確にしておかなければなりません。そうでなければ思慮が概念化してしまいがちになるからです。物理学は抽象的概念の上に立ってはできるわけがない、とわたしは思っています。この学問は自然の実際の現れを対象とする“実学”ですから。
  われわれはあまりに“空間”をおざなりにしてこなかったでしょうか? 

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    不定期便  第84号
 特に力学では空間を明確にしなければ進められません。学校の先生は黒板に山形の放物線を描いて、これが投擲体の軌跡を表わす、としました。それは縦線と横線が十字に交叉した、座標と呼ばれるものに対して描かれます。横へ一定距離を行くごとに、下へ落ちる距離がしだいに増してくる、その増し方を、“微分”という数学的手段で示しました。横への移動は時間に比例していますから、一定時間ごとの移動幅は皆同じで、等速度と呼びました。必然ながら落下距離はしだいに増すので加速度としました。縦軸とは重力方向を指し、横軸とはそれに垂直な水平方向です。そう考えたとき初めて、地球の重力と水平線の関係に置かれたのです。これが物理学でいう空間であるのを、数学上の座標で表わしております。投げられた物体を見る観察者自らはその重力に対し地面に固定されています。つまり、投げられた球とともには動かないで、球の軌跡を放物線として眺めています。これらが描かれるべき真の空間問題は、学界が認めようとしない“光速の法則”が解決してくれるはずであります。
 しかしこの新しい解釈が真実である可能性があるのだとすれば、なんとかわが命あるうちに、メディアを介してにしろ、世間に知らせておきたいものです。

 
 神の計画を伝えたい  013. 1010

ショーペンハウエルの言葉を借りれば、――ひとり真理のみが、たとえしばらくは認められずあるいは息をふさがれても、あらゆる時代を当てにすることができる。 なぜなら、内からほんのわずかの光が射し、外からほんのわずかの

   風が通ってきても、ただちに誰かが現れて、真理を告知しあるいは擁護するからである。すなわち、真理はどれか一党派の意図から発したものではないから、いかなる時代にも、優秀な頭脳の持ち主はみなそのための闘士となる――
  そしてわたしはその闘士の現れるのを待ちわびています。まさか私自身が天才であるとは思いませんが、また彼は申します。
 ――天才をほかの頭脳の持ち主の間においてみると、それは宝石に混じった紅玉のようなものである。ほかの人々は、よそから受けた光を反映しているにすぎないが、かれは自分で光を放射している。 …学者とは、多くのことを学んだ人のことであり、天才とは、何人からも学ばなかったことをはじめて人類に教える人のことである。
 一億人中にようやく一人というような精神たちは人類の灯台であって、これがなければ、人類は怖るべき誤謬と荒廃の果てしない大海に没してしまうであろう――
 わたしが天才ではないにしても、わたしは「何人からも学ばなかったことをはじめて人類に教える」人たらんと“努力している”者、であることを望んでいます。つまりわたしは、神が示された神の計画を伝えようとする伝道者にすぎません。

 マタイ伝にも翻訳すべき至言があります。
――だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
  また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父お一人だ。 (法律)学者たちと現代(ファ)物理学(リサイ)派の人々、あな たたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない――
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    不定期便  第84号

 どれが本当の空間であるか 1010

 物理の何を考慮するかによって、観察座標は決まっていなければならず、抽象的な“座標”は正しい物理を示さないことを念頭に置かなくちゃいけません。



 通常の力学はいま見ましたように、地上で論ずればそれでよいものでした。そこでは重力や風力や浮力が働いています。学校物理の大概は、そんな座標で間に合います。3本の互いに直交する軸で十分です。

 ですが実のところわたしたちはあまりにあいまいな定義で満足してはいないでしょうか。まず物の速度について、そうであります。球がものすごい勢いで飛んでいるとき、その勢いの大きさをそのスピードと質量との積を“運動量”と呼んで、その大きい小さいで比較しています。質量に速さの2乗を比例させて“運動エネルギー”――それは仕事つまり物を動かすのに必要な力とその力で動かすことのできた距離との積と等量――と定義しました。でも、そのスピードは何に対していうのでしょうか? 普段、わたしたちはそれについて深く考慮しません。
 まあ、自分つまり観測者は地面に寝そべっているか、椅子にでも腰掛けているでしょう。その勢いよく飛んでいる球を見守っているのは、地上にほとんど固定された眼でありましょう。あの球が家の窓ガラスに当たれば、めちゃめちゃに壊すでしょう。球は窓に対してすごい勢いを持っています。

  

けれど、もしわたしがその球と同じ速さで伴走しながら観察していたとしたら、その球は自分にとってはきっと穏やかなものです。まもなく、ガラス窓が屋敷もろとも激しい勢いで球にぶつかり、ガラスが飛散するところを、わたしは目撃することになるでありましょう。運動エネルギーを多く持っていたのは球でしょうか? それともガラスでしょうか? 

エネルギー保存量は、どの座標で見るかで、その座標ごとに違うことになります。いったいどの座標から見るのが正しいのでしょうか?

次回へ

 






 

 

 

 
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