C       不定期便  第85 
 
 不定期便 85 013年11月30

          相対論を超えて 2 
 
発行
2013年11月30日
発行者
熊野宗治

『どれが本当の空間であるか』

より続けます 

絶対空間     013. 1027


 想点を変えてみましょう。いまわたしは時速250キロで走る列車の乗客。50グラムほどの小さなゴルフボールを手のひらに乗せてみています。手のひらに静止するこの球の、車中での運動エネルギーはゼロ、というのが衆目の一致するところでしょう。ところが、地上からこれを眺める者には、それは高速列車とともに走る球です。ゼロではなく、50グラムの2分の1に列車速度(250キロ/時)を2回乗じて得られるエネルギー(50g/2)×(250km/h)2を持つと見えています。地上で手に乗せているボールこそが間違いなく静止しているのだから、こちらが運動エネルギーゼロのボールだ、と主張するでしょう。
 そんなふうに言うなら…と、3人目は言うかもしれません、「月面にいる人も、火星の人も、みな、手に持つボールはそれぞれの運動エネルギーはゼロだ」と。何に対してといいますと、ボールを乗せている手に対してです。ひいては個々の惑星に対してです。

  けれど惑星それぞれは、実はおのおのひどく違った速さを持っています。では月や火星のどれが本当に静止しているのでしょうか。

   そもそもが、それら天体たちは何に対して運動しているのでしょうか。絶対静止空間に対してとか座標に対して、とかいうのでは、すこぶる曖昧です。 どだい絶対静止空間というのは本当にあるのでしょうか? どこにあるのでしょうか?

 親愛なる友よ、ぼくたちがかつて考慮してみたところによれば、次のようでした。“すべての運動する空間の総和”に対してである。それがどのようなものだったかといいますと、手近なものをいくつか拾い合わせただけの部分和をもって、宇宙での和とすることが“空間”として近似的には十分だったのです。 
       
――私たちは身近に存在する物質たちのほかにも、宇宙全体の存在物を認めなければなりません。すなわち個々の物体たちの運動エネルギーの絶対量をこの宇宙のすべての持ち物に対していうことにすれば、間違いなく保存される(量が変化しない)空間である、ということになりましょう。
 私たちはこの世の絶対的空間というものを、ほとんど考えてみたことはありませんでした。それはたぶん、無限に大きいものであるから、そんな絶対空間は決められない、と考えたからでしょう。  
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    不定期便  第85号
 この考察に際して、なぜ宇宙全体について考慮しなければならないかと申しますに、それは物質の誕生の謎を解こうとした際にかかわってくる問題だとわたしは考えたからです。すなわち、誕生して存在する物質の総計に過不足が生じるとしたら、誕生の前後で物質(質量)保存の法則(その全量が不変であること)に抵触することになるからです。たとえそれが天地創造の瞬間であってもです。“この瞬間だけは”と、現代物理学ではその性癖から、平気な顔をして例外扱いをしかねませんが、厳密な原理を知りたいぼくらは、逃げないことにしようではありませんか。
 そのことは後に触れることにしても、物理を考える上での“絶対空間”ということについて触れないで済ますことはできません。じつはその絶対静止空間の把握は、さして困難なことではないのです。なにしろ、ほとんど手近なものをいくつか拾い合わせただけの部分和をもって、宇宙での和とすることが“空間”として近似的には十分なのです。
 諸君、ぼくらはこれを“近似絶対空間”と呼ぶことにしようじゃありませんか?

 そもそも、空間とは何でしょうか。私たちは物質同士だろうと人間関係だろうと、互いに関係し合っています。

 

どれが本当の空間であるか  1010

  そこで諸君、もしも2つの存在の間にいかなる関係もないとすればです、空間というものが存在する必然も意味もないじゃないですか。2つの間に存在する関係性こそが、空間にほかならず、実を言うとその空間そのものが物質の存在そのものなのです。それを示唆する実際例(コイルの中の磁極)を、第59号第10図 ――その

   ときの例は質量の存在ではなく、磁性体の存在であり、その存在は磁気の圧密された存在でした――で見ました。そういうことを、あくなき推察の末、知ることになるのであります。見えざる関係性こそが空間に他なりません。
 その根拠となるものにつきましては、この先で追々、推論を試みることにしますゆえ、なにぶん諸君も楽しくお付き合いを願います。

 とりあえずは、いま述べた絶対空間をもって絶対座標とすればよし、とわたしは考えます。すべての物質の運動はこの座標をもって物体の速度とすることができます。動いている乗り物(座標)から見るその物体の速度は、真の速度とは違って見えることになりますが、それは相対速度であります。われわれは通常、この相対速度をもって学校物理では物体の速度と称してきました。はなはだ主体性がありません。生徒諸君が途中から分からなくなってくるのはこのためであります。相対論もまた、この不完全の上に立てられたものであります。

次回へ






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