C       不定期便  第87 
 
 不定期便 87 014年 1月7
          相対論を超えて 3 

    質量保存則物質誕生相容れるか

発行
2014年1月7日
発行者
熊野宗治

 新年おめでとうございます。“筑波からの不定期便”は第85号から続けようかと思います



 なぜ宇宙全体か

 85号では、絶対静止空間は“すべての運動する空間の総和”に対して与えられる、としました。その空間は物質たちがつくっています。
 われわれは身近に存在する物質たちのほかにも、宇宙全体の存在物を認めなければなりません。すなわち個々の物体たちの運動エネルギーの絶対量をこの宇宙のすべての持ち物に対していうことにすれば、間違いなく保存される(量が変化しない)空間である、ということになるでしょう。
             
 この考察に際して、なぜ宇宙全体について考慮しなければならないかといいますと、誕生して存在する物質の総計に過不足が生じるとしたら、誕生の前後で物質(質量)保存の法則(その全量が不変であること)に抵触することになるからです。

  
 
天地創造にも法則は適用される

         013.11/6

宇宙がいかに誕生したかについては諸説あります。神による天地創造、…これは物理学で究明する範疇にありません。神学者には叱られるかも知れませんが、神は天上にましますというより、人間の想像物と言ってよいでしょう。しかし、人が神として畏れるのは、人智を超える何者かがこの宇宙にはあると直感しているからにほかなりません。
 常に正しく、何者にも振れることのない、この大自然の決まりごと、自然法則あるいは、これを司っている存在のことを、わたしは神と呼ぶに相応しいものだと思っています。
 人類は自然法則というものを、あくまで謙虚に受け容れる必要があります。われわれもまた、法則のもとに造られしものですから。

われわれの世界では、頭脳の優れた人が常に頂点にいるから安心していられます。しかし困ったことに、ときには固い絆で結ばれた、

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    不定期便  第87号
ある種の権力を持った先生たちが、権力構造に守られながら、ファリサイ派の人さながらに、神の自然科学の前に立ち塞がることもあるのです。
  しかし、地上の人を父と呼んではいけない、と伝道者は申します。なるほど、まことに地上の父はよく過ち、過つと改めることがありません。面白いことに、二重の過ちを犯させるのは、権威とか面子とかが持っている性質そのものであります。はっきり言えることは、権威とは神から与えられるものではありません。人が人によって、彼らに都合のよい形式として、人に与えられるだけです。
 神でないわたしたちは、いろいろな科学的対象に、自らひらめいたある考えのひとつを当てはめてみて、どの場合にも矛盾に陥らないなら、ある程度その見付かったと思われる規則性のことを、少なくとも当分のあいだ自然法則と理解しておいてよいはずです。その間、そうしてよいかどうかを、常に天に問うのです。間違えて権威に問うたばかりに、真実を教えてもらえないこともあるからです。

 権威者の放言  まともな意見に耳を貸さない社会    11/6





             

学界の諸説の中で、それは違うであろうと思われること――わたしが思うのですが――を挙げてみたいと思います。
 粒子と粒子が出会って消滅する。そんなことはないでしょう。消滅したものがいかに再び存在し得るでしょうか?“再び”でなくてもですが。“無同士”はもちろん、“消滅した同士”は、もはや出会うこともありますまいに。

 

    また、粒子たちの片方の数が余って、消滅しない粒子として存在するものが宇宙を造っている。そんなばかなこともないでしょう。ではその余った分の粒子たち(幸せにもパートナーに恵まれて間引かれることになった粒子たちも、ですが)は、いかにして存在したの? “存在の謎”は解かれていません。
            

最近のノーベル賞によれば、粒子たちに、あとから生まれたある種の粒子が質量を配る。そんなばかなこともあるもんですか! 他人に質量を与えられるほどの粒子が、いかに、なぜ、後になって誕生しえるのでしょうか? 

ビッグバン宇宙誕生説。そんなこともあり得ますまい。銀河系の膨張・収縮や星の爆発なら分からぬこともありませんが…。

120億光年かなたの星が見付かったが、宇宙膨張理論によれば、ビッグバン初期の状態がその星の観察から看取できる。なるほど、今見えるのは120億年前の姿ということになるわけですが、現実的イマジネーションとしてはなんとお粗末なことでしょうか。では、いま望遠鏡で見えているあの星の光は120億年も前に星から出たはずの光で、そのころはまだビッグバンの中心付近にあったことになります。つまり中心付近から出たはずの光が、地球より120億光年も外側の外周付近(望遠鏡はその方向に向けてあります)から到達して見えていることになります。光はどんな経路を経てきたのでしょうか? 

        
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    不定期便  第87号
 そう訊ねられたとき、そんなアイデアはすぐさまゴミ箱へ放り込むべきだったのです。
 光速不変もまた、あり得ますまい。なぜなら、光はcという有限な速さを持つと実験で観測されました。cという確かな値が得られたからには、それは何かに対する速さにちがいありません。その光がどこを走るのかも究めないで一気に“不変だ”とはあんまりです。なるほど地球は太陽に対し公転しているから、地上で見る光速は方向によって違ってみえるにちがいありません。そう考えるのはもっともです。
              

観測結果はどの方向でも光速cを示すことに驚いて、困って、とうとう超有名なある人の意見によって“光速は不変”と決められてしまいましたが、地球自体がエーテルを持っているのかもしれないと、そのときなぜ考えてみなかったのでしょうか? エーテルが太陽に対して静止していると仮定できるのなら、地球に対して仮定してみてもよかったはずです。考えとしてはよっぽどそれが普通でしょう。そうしなかったのはなぜでしょうか。
      

不幸なことに、秒速30qもの公転速度を地球はもつにもかかわらず、光速はいつもcの値を見せる、その理由としていち早く放言された“速い物は縮み”、運動速さによって“時間の進み方がちがう”という奇妙で非科学的な説明のほうが、いかにも面白そうで一般受けもしたからです。神ならぬ人間の悲しい性質のせいであります。正しい考え方はおそらく次のようです。

   新しい見方

光速を測定したマイケルソンが前提としてやったことを喩えて申しますと、χノットで走る船舶の上で玉を転がせば、船の進行方向とその逆向きとでは玉の速さは違うであろう、と予測したのと大した違いはありません。玉の速さがどの向きも同じであったことに学者たちは仰天していますが、陽が落ちれば暗くなるのと同じくらいに当たり前なことです。
 実験台をどんなに頑丈に船の甲板に取り付けようと、台が水平なら、玉の速さはどの向きでも変わらないのは船上の誰が見たってわかります。つまり、玉が転がされる媒質たる甲板は目に見えますが、地球が持つ光のエーテルなる重力場は見えなかったに過ぎません。玉にとっての甲板にあたるものは、光にとっては重力場であるのだと、ぼくたちは気づいています。

だとしますと、地球の重力場から離れた宇宙空間で、同じマイケルソン実験を行えば、その装置は太陽系に満ちている太陽の重力場に対して公転運動をしながら、こんどは間違いなく方向に従った光の相対速度が観測されるでしょう。膨大な質量をもつ地球の重力場とは違って、観測装置の周りにつくる自身の重力場は無いに等しい(万有引力係数はきわめて微弱なためです)くらいですから。
 わたしはその検証実験結果の正否に
一抹の不安と大きな期待を持ちつつ、実験が実現されるべく望んでいますが、今のところ実行しようという動きは見られません。既刊の拙書はどの理系大学でも読まれたはずですが、ちっとも反応しないのは、このまま研究環境の安泰を維持したい学術界の錆びつきを証明するものだ、と思いたくなります。                      
013/11/6)

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