C       不定期便  第89号 
 不定期便 89 014年 2月10
  相対論を超えて 5

       宇宙誕生試論
発行
2014年2月10日
発行者
熊野宗治

物質はいかに生まれたのか 013/12/19

 
質量出現の謎

前号のような推論によれば、グループ団子たちが合体するたびにそれらの重心の持つ質量は増大する。質量の増大は団子のつくる重力が大きいものになることを意味し、次第に引き締まってゆくであろう。

 さて諸君、これが進化してゆけばどうなるであろうか。おそらくそれは、さらに著しく小さい粒子にまで引き締まってゆくだろう。こうして、あの素粒子の材料となる微細な粒子となる……こういう進化が宇宙のたった1箇所でしか起こらないことだと、どうして限定することができよう。反対に、それは無数に存在し得ること、そして、重力場とは違う新しい場を生じたりしてその進化が進んだものや新しいものやらが公平な可能性を持って存在するのではないか。これらのことを生命の起源に重ね合わせてみるのも面白そうである。
               

 ここまできてわたしは急に、電流の抵抗がゼロとなる超伝導の空間のことを思い出した。場で満ちた空間での絶対零度とは、+の場の和と-の場の和と穏やかにつりあい、揺れがない状態である、とわたしは理解している。電子はそこを滑らかに通り抜ける。場の釣り合った状態は静かに均衡しているが、“無”ではなくて、実は“存在”しているのだ、と理解する。これは空間に“質量”が存在

   していることを暗示している。
 質量の存在の起源すなわち物質存在の起源は、なぜその陰陽の場が生じたかに帰することになる。もしそれを宇宙で最初にただ1つ出現

したとすることは、それがそのとき無限大のサイズを持っていたことになり、そんなことは不可能に思われることから、否定されなければならないだろう。
              
 さてこのようなことを考えることは、もはや物理学ではなく哲学だ。わたしの思いでは、哲学とは論理的思考のことである。
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    不定期便  第89号
正しい結論へ通じるための、筋道正しいと考えられる思考であるが、実証実験等によって確認されない限り、その思考が正しいとは、まだ言えない。 哲学とはその思考過程に過ぎない、とわたしは定義しておきたい。諸兄がわたしの記述から離れて、独自にそれぞれの哲学へ羽ばたかれるのは自由である。


物質ははたして実体か?
 わたしなりの哲学を続けたいと思う。先ほど場の存在は物質の存在と同じであろうことをほのめかした。これまでのところ、われわれは「質量は重力場を持つ」と言ってきた。通常われわれが物質とするものは質量を持ち大きさがある。それがやがて大地を構成し、生物の体まで形作っている。そしてわれわれは自然科学によって質量の量は不変であるとする「質量保存の法則」を受け容れている。もっとも、質量はエネルギーに変わりうるという考えを、一般に持ち始めている。が、ここに当たって定義されるエネルギーとは、“形あるものではない”ことを特筆しておかなくてはならない。
  
                      上高地
 天地創造が物質誕生と同義であるとすれば、天地創造の前後を比べても、質量保存の法則が適用されなければならない。――質量保存の法則が自然法則だとすればであるが――もしも宇宙の誕生が質量の出現に負うものだとするなら、法則を破ってその物質は出現しなければならないことになる。現代物理学の素粒子理論や、高エネルギー研究を基礎付ける
   理論や、ビッグバン理論も、質量誕生を説明することはできていない。 どれも当たり前のように素粒子が存在していたところからしか始められていない。素粒子といえども、所詮、物質である。


物質の始まり  013/12/19

  
物質の前駆体
 そこでぼくたちは、物質はいかに誕生したのかについて矛盾なく説明することのできる、物質の出現の仕方を哲学してみよう、というわけである。その際、一等最初にぶつかる矛盾がかの「質量保存の法則」だ。その法則によれば、この宇宙が質量で満たされるという事実が夢ではなく本当のことだとすれば、この宇宙の誕生の前にも質量が存在していなければならないことになる。 すると、わずか1グラムの物質でさえ、無から誕生することには理性的な説明をつけることができない。
 翻って、質量の存在の前がいわゆる物質ではないものに起源があるとすれば、物質の誕生は起こらなかったことになり、法則を壊すこともない。そこで、前にも言ったように、物質ではない存在、すなわち質量もなく大きさもない、いわゆる通常われわれが物質と認識している状態ではない存在こそが源泉なのではないかと推察してみてはどうであろうか。例えば、磁場というような“場”として存在したと考えるわけである。


見えざる現象としての存在
 仮に存在という概念が物質に限られるとするなら、そのときの物質以前の状態は“存在”しない、“無”ということになる。一番初めに“無”ではない、と言ったのはこのことである。
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物質誕生を説明する無の空間は、物質としては無であったが、現象としては何かがあった空間なのである。
だとすれば、今のぼくたちの知識からして、物質とは場と同じものなのではないか。そうして、新たに、ではその“場”はいかにして誕生したのであるか?という疑問に置き換わる。
 実はわたし自身にも、この段になると説明が見付からない。後世の研究に期待するほかない。しかしながら、ぼくらも、できる限りのところまでは推測を試みよう。――物質は場と同じものである。(ただし次元ディメンジョンの問題がある)

 すこし前にそれを示唆する現象について考慮してみたことがある。貴君も、第59号で見たことを思い出していただきたい。

 


  
トイレットペーパーを使い終わると中空の芯が残る。これに導線を巻いて電流を流せば、どんなことが起こるかを論じた。棒磁石というのは磁気を帯びた鉄の棒であるが、ペーパー芯に巻かれたコイルは鉄心を持たない中空な磁石となっている。その証拠に、その中空コイルは磁針を一方に向けさせ、磁性金属を引きつける。そしてコイルの巻かれた中空な磁石は、引きつけた金属をそのまま穴を素通りさせてしまうことができる。棒磁石という実体はなくとも、磁性(磁界という場)は存在することができることを、自分のこの目で確かめることができたのだった。

 磁石の磁場も、コイルの磁場も、磁性体に力を及ぼし、電動モーターとして動力に応用することのできることはご存知のとおりだ。

   このメカニックの作動している間にできては消える磁場も、同じ性質の場である。磁場、電場、力場が盛んに相互変換しているところを、ぼくらは想像することができる。

 磁場は見たところ“無”に似ているが、棒磁石という物体とも一体化するものであるようだ。では力場もまた、質量と一体化しているものではないだろうか?
 わたしは、重力――この重力は質量が大きければ大きいほど大きく作用する――の極を作っている質量(先ほどの磁場に置き換えれば、磁場を作っている磁荷に相当する)とは、磁性と同様、重力場の凝集されたもの、と理解してよいものではないかと思われてくる。
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