光速の背景  36 次ページ

 第1章 輝かしい発見
 微小世界での因果描写の限界を吐露
  1927年 ハイゼンベルク不確定性原理

 「量子の世界では物理的な量を測定した結果は、種々の異なった値がそれぞれ決まった確率で得られる」
 ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg 190176独)は、その原理の提唱によって、量子の世界では観測者によって、また、観測時の条件によって、観測結果は同一でなく違ったものになるとする。
 これに対立したのは、「神はサイコロをふらない」といって反対したアインシュタインとド・ブロイである。ボーア(Niels Henrik David Bohr 18851962デンマーク)は愛弟子ハイゼンベルクの不確定性原理について、1927年に提唱した「相補性」という概念でこれを説明している。つまり、マクロの古典物理学ではすべて時間と空間座標の関数で表わされ、粒子の位置や速度や量の変化も、因果的に決定される。しかし、ミクロの量子の世界では不確定性原理が示すように、粒子の運動を時間、空間座標に表わそうとしても、不確定さを伴わないで因果的にたどることはできない。互いに排除的関係にある量や概念は相互補完的であり、どちらが欠けても完全でない、とボーアは言う。これが「相補性」である。


 具体のイメージあってこそ見方の変換ができる
  1932年 陽電子の発見 アンダーソン 

 イギリスの理論物理学者ディラック(190284英)は、1930年に陽電子の存在を予言していた。しかし当時としてはラザフォードの原子核構造で示されたように、陽子は中性子ほどの質量を持って原子核の中に存在するもので、マイナス電気を帯びた電子は小さい粒として核の周りを回転している。それからすれば、ディラックの陽電子が存在するという理論はあまりにとっぴすぎてそう簡単に受け入れられるような環境ではなく、反撃も手厳しかった。ところが、その二年後にアンダーソン(Carl Devid Anderson 190591 米)が、ふとした偶然からそれを発見してしまう。
 彼はカリフォルニア工科大学で宇宙線の研究のためウィルソン霧箱を使って実験していた。宇宙線中の粒子の進行方向を確認したくて鉛板で隔離した霧箱をかれは考案した。この霧箱に強い磁場をかけると電子とちょうど反対側に対称的に曲がる飛跡のあることを発見したのだ。同様な実験をしていた科学者は何人かいたのになぜ陽電子の存在に気づかなかったかといえば、それらの人々は粒子がどちらの方向に走っているかをつきつめて知ろうとしなかったからである。
 アンダーソンは「正と負の粒子を確実に区別するためには、運動の方向をはっきり決めさえすればよいと考え、この目的を達成するために霧箱の中に水平に鉛板を装入した。粒子がこの板を通過してエネルギーを失うと、エネルギーが低くなり、磁場の中における曲率半径が小さくなる(大きく曲がる)ので、粒子の運動方向が容易にわかるわけである。 それが右に曲がったか左に曲がったかで電荷の正負が決定できるようにしたのだ。電子と全く同じ飛跡を持ち、反対側に曲がる荷電子、これは荷電が正で、電子と同じ質量を持つ粒子ということになる。当時としては革命的であった陽電子はこうして見つかったのだった。
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