光速の背景  61 次ページ

第3章 発見は誰にもできる
ちは天から生命を与えられ生かされている。まさしく、われわれが社会のために役立つとすれば天命によるのであろう。発見の感激は、一心不乱のうちに、忍耐して達成したときに起こる。何にもまさる幸福感である。その一歩は、その道に乗るところにある。


 発見への手法

 科学的発見へ首尾よく導かれるためにはいかなる要件が必要であり、いかなる方法をもって、いかに考えるべきであろうか。発見の方法には観察・実験・思索という三つの主要な手段があり、新しい発見への力強い引き金となるものは自然現象やその理論上にみられる“謎”と“疑い”と“矛盾”に挑むことであるといえよう。なぜなら発見とはそれらを解くことだからである。中でも観察と実験(現象のモデル化)は最も基幹となるものであり、これに携わることのできる人は幸せだ。遺憾ながら身近に実験設備を持たないわたしにできることは、発表された実験データや自らの観察を通しての思索、という方法に限られる。しかし、その思索という方法も、なくてはならない。
 この思索にも二種の方式がみられ、一方では想像論を展開してゆく「空想の展開」、他方では実験観察という「事実」を柱とする「事実に基づく考察」という二つに分かれているのが現状だ。わたしが思うに、前者は抽象的な「観念論」に陥りやすいものであって、後者は具体的事実を重んじる「実際論」といっていいだろう。もちろん、物の原初的な性質を究めてゆこうという物理学においては、後者の、より事実に近い思索によるのが好ましいはずである。
 にもかかわらず、なぜか物理学において好んで択ばれるのは、空想の展開の方である。この方式を採るには、その魅力と危うさとが裏腹にあることをわきまえておく必要があろう。空想論の魅力は発想の自由にある。なぜ自由かといえば空想論は多分に抽象論だからである。論理の展開において、複数の抽象論の間には互いに自由ゆえの矛盾が生じがちだ。矛盾の生じた場合にも、その矛盾を気にするよりもその憶測の可能性を喜ぶことが強いときには、省察してみようという抑制が働きにくく、これは危険である。

 賢明なる諸君、“発想の自由”なる精神の下で、あるはずのないことをありうると考え、確信し、矛盾や曖昧さを超越することに情熱が傾けられるとすれば、これは空想である。矛盾の存在は論理の展開の上で少しも障害とならない。不合理の無視されることを、従来の通念を乗り越える力であると誤信したまま出発するなら、明らかな矛盾の混在する理論が組み合わされ、その結果誤った理論が組み上がることになる。
 空想の展開が抽象的観念論を許されるものだとするならば、それは発想の自由が潤沢に与えられることになって、一般通念を軽々と超えることができよう。こうした発想の仕方は従来説に縛られない新鮮さと新奇さがあるために喜ばれ、論理に誤りを含んでいようといまいと、早いテンポで進展することがありえる。
 かように興味任せに組み合わされた複数の抽象論の間には互いに矛盾が生じ、矛盾の生じたことに気づきにくい。元来不合理を不合理と認めないことから出発した方式であるから、何者にも縛られない奔放な明るさを持っている。一般に受容れられやすく、誤謬を孕んでいることに罪意を感じていないのが通例である。こうなってはこれを正すことは甚だ困難になる。
 学ばずしては不思議もなく、疑いなくしては発見もない。先に述べたよ
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