光速の背景  64
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第3章 発見は誰にもできる
て、本気で格闘していることがある。いまのところ我々の道理に乗ってはいるが正しくないもの、われわれの道理の学ではそれが正しくないと判断し得ない段階、というものはありえると考えなければならない。かつては錬金術や永久機関の工夫が真剣に研究された時代がある。物質には当時まだ知らなかった原子という構造があって、通常の力や温度では、単に混合しても、核の融合・分裂を起こしえないことを知れば、鉛を金に変えることなど容易にできないことがわかり、エネルギー保存の法則をまだ知らなければ、永久機関の研究は続けられたことだろう。
 われわれがまだその段階に達していないために、われわれがいま行なっている研究対象が「それ以外のもの」であると知ることができず、研究を続け、あるいはそれが正しいと信じつづけられることもあるわけである。
 またあるいは、どうにもならない惰性や権威によって続けられていることもある。しかしながら、その対象が「それ以外のもの」である場合には、いずれつじつまの合わないことが見つかるにちがいない。そのわずかな、かすかに感じ取れる「つじつまの合わないこと」がある場合に、それについて真摯に検討してみる必要がある。
 われわれがその「それ以外のもの」に関わる研究を続けているとすれば虚しいことである。いかにすれば早くそれに気づくであろうか。人が無意識下に何かをそうありたくないと願っていれば、つまり、いま自らが学び知っていることに誤りがあるとすれば、それは不安である。誤りを見出すことが新しい“学”であるのに、それを見出すことを無意識下で恐れる。自らの学が崩れることの不安にである。それゆえ、そういった「つじつまの合わないこと」の兆しがあっても、気づかないままでいたいのである。つまり、そうは考えたくない、という意識下の願望がある。この心理は「無意識の盲目」として表れる。

 オリヴェリオが書いているとおり、この「無意識の盲目」という現象は、われわれが《自分の行為を必ずしも意識しているわけではなく、楽観的な視覚の働きによって、私たちを取り巻く世界で起きることから自分に都合のよい点だけ引き出している》ことを示している。
 自らが聞き知っていることによって、また権威によって、自らが理解していると信じさせられていることから解放され、真の摂理へ近づくためには無意識の望まない“つじつまの合う”哲学に帰依しなければならない。われわれは思い切って、誤っているものを捨てる勇気が必要だ。コペルニクスが接したアリスタルコスの説や、パスカルが接したトリチェリーの説のように、いかなる人が唱えたにしろ、注意の喚起されたそのことについて、自らの思索の力によって、いかなる権威にもゆらぐことなく、つじつまの合う考え方を選び出す習慣の中に、発見への素質を宿しているといえよう。その素質を鍛えることこそが悟性の豊かさを育むものにちがいない。
 “予感”の例を見てみよう。もし、“光の速さ”の基準となるただひとつの絶対的な空間(光の絶対座標)があるのだとすれば、それに対し地球は大いなる速さで動いているはずだ。すると、光はドプラー効果のため見る方角によって色づいて見えるにちがいない。だから、光に絶対的な座標があるとすることと、いかなる方角についても事実は色づいて見えないという、この二つは相矛盾してつじつまが合わない。したがって、光が唯一絶対な座標を持つという考えは疑い続けなければならない。ケプラーの法則は、それを見出したケプラーが師ブラーエのデータと先人たちの言う天体運動とのあいだにどうしても合わないところがあって、そのわずかにつじつまの合わないわけを考え続けたからこそ見出した法則である。
 この考えつづけるという努力のうちに、突然にすべてが結びつくというひらめきがあって、この瞬間、多くの矛盾が解ける。絶えざる思考の過程から発見は起こるものらしい。好奇心という興味の炎を“灯しつづける”人
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