光速の背景  66 次ページ

第3章 発見は誰にもできる
迷路にはまるなかれ

これらの例からも、しごく些細なことから物理的な発見へ導かれたことがわかる。決して重装備の実験設備からでなければもたらされなかったことではない。自然の示す物理を知りたい、その一念からであることがわかる。石を結んだ糸を振り回してみていたとき、万有引力の法則は発見された。ニュートンがそれを数式で確かめたのはその後のことだ。あくまでも数学は道具にすぎない。

 
ニュートン』  サルヴァドール・ダリ

 数学は発見された法則を明確に磨きだす道具であって、このように正しく使うことによって数学は輝くと言えよう。数学が自然を明確に浮き上がらせていない限り、単なる数学にすぎない。実体不明なものを抽象的に表わそうとする数学に、さまざまなアイデアを凝らして新しいものを付加することは、虚しいことに思われる。そんなふうに時間を浪費しないで、常に自然現象に回帰し、理解の矛盾に悩み、悩みの解決に努める、それこそが自然法則発見への道行きではないだろうか。
 誰かが作った数式を基に、自分なりの数理解釈を加えて新たな方程式を発明するといった活動のなかからドクター号を取得するという具合に、ドクターの数だけ数式が溢れてくる。物理学へ向かう前に、どの数学から入門すべきかに迷ってしまうことがある。そして、そうした教授たちによって
弟子たちが指導されるとき、似たりよったりの不毛に近い数理が生み出されるのであろう。とうとう、それがどんな物理を表わすものだか分からなくなってしまって、物理学から落伍してゆく研究生も少なくないようだ。

 ある理論が信頼に足るものであるかどうかを判断する上で、科学的思索慣習から身についてくる勘というか、印象のようなものが働くようになるのだろう。デヴィット・ヒューム (David Hume 1711~1776)の『悟性論』によれば、《観念の起源は印象である。印象は記憶において更生され、想像によって、諸々の印象の順序や位置が自由に変更される結果、知覚の対象とはならないような観念が生ずる。観念を結合して新しい観念を思い浮かべる時には観念の連合が行なわれるが、連合の法則は、類似と、接近と、因果である。
 因果律について、われわれがこれまで経験した事物と、まだ経験しない事物とのあいだには、必然的な結合関係があると考えられるが、この必然的結合は、経験において証明することはできず、ただ信ずるだけである。
 信念の強さは、経験、または実験の度数によって増大したり、減少したりするが、絶対的な確実さはわれわれに与えられない。…
 物が存在するかしないかの問題さえ、人間は解決することができないと考え、「物自体」に関する思想は、もちろんみとめ難い(『人間性についての論文』)》と彼は考えていて、一般には彼の哲学は不可知論的経験論といわれている。
 これは哲学的悟性論というべきであろう。またヒュームは因果律を懐疑的に捉えていたが、こと自然科学に関して言えば、自然に関する確実な経験、確実な観察によって実証しながら、すこしでも先へ向けて、科学的発想を永遠に続けてゆくことであると言ってよいだろう。ヒュームの言う「不可知」はまた、哲学上の“観念についてである。今われわれが問題にしていることは物理という“自然の摂理”についてである。どちらにしろ

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