光速の背景  68
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第3章 発見は誰にもできる
 「《力》の意味ですな。すばらしい!」

 遠慮のないポール・バルブが、少々酔って言ったことがある。
 「適当なひとをとっつかまえて、さっさと奥さんにしちまいたまえ。」
 実のところ、彼には、ちゃんとした女性と知り合うチャンスはたくさんあった。あるパーティで、『レ・ミゼラブル』の作者ビクトル・ユゴーと親しくなり、彼から上品で知的な女性を幾人も紹介された。幾人かの女性と文通もしたが、彼の内気も手伝って、それ以上の交際には進まないのである。
 アルフレッドは、相変わらず毎日、山のような量の手紙に返事を書いていた。「これでは忙しすぎる。口述筆記をやってくれたり、事務の手助けをしてくれる人――女性を雇うべきだ。」  舞い込んだ応募の一通にアルフレッドは興味をひかれた。
 「達筆だな。文章も高い教養を示している。」
 ベルタ・キンスキー伯爵令嬢はウィーンから汽車で到着した。事業家と秘書は、すぐうちとけた。アルフレッドとベルタは、毎日夢中になって、おしゃべりを交わした。彼女もまた、アルフレッドに魅かれ始めていた。今度も――アルフレッドがスウェーデンの新工場落成式に出ているあいだに――秘書は置手紙を残して去った。アルフレッドの留守中、恋人のアートから、電報が来たのだ――ベルタ、君なしで、どうして生きられよう!

 発射煙は、戦いのとき、敵に砲の位置を知らせてしまう。アルフレッドが無煙火薬を開発すれば、ただちに戦争に使われる、ということを知らないはずはなかった。「しかし、世界じゅうの化学者が、無煙火薬の発明を手がけているのだ」と、彼は助手に言った。
 1887年春、ベルタ・フォン・ズットナーから手紙を受け取った。「お懐かしいノーベルさま。まだ恩知らずのベルタをおぼえておいででしょうか。…今、パリに宿をとっておりますの。」
 食事のあと彼女は言った、「わたくし近ごろ、書き物をするようになりましたの。」
 その十年間は、…1877年には、ロシアはまたトルコと戦争を始めたし、一年後には、イギリスがアフガニスタンを侵略した。火薬の原料、硝石をめぐって、チリとペルー=ボリビア連とが翌年開戦。南アでは、ボーア人とイギリスの血戦…。
 「ノーベルさま。初めてお会いしたころ、こう言われました。『いつか、想像を越えるような爆薬か武器を開発したい。それを使えば、世界が破滅するような。そうすれば恐怖で、戦争を起こそう、などという気は、どの国も捨ててしまうだろう』って」
 「わたくし、そのお言葉を、ロシアにいるあいだに、思い出しましたの。…戦いにかり出される民衆の苦しみを、わたくし、まのあたりに見ましたもの…。」
 「そうして、わたくしやがて、世界平和運動の活動家たちと知り合い、行動をともにする決心をしたんですの。」  アルフレッドは深くうなずき、こう話した、「理想主義はもちろん、人間の思い描くことのできる完全、最善の状態に従って行動することだから、実現は容易ではない――むしろ不可能だ。」 「ノーベルさんの、平和理想実現の手段が、超爆薬の開発、というわけですか…」夫のアートが口を挟むと、アルフレッドは口を濁した。「今のところ…それでは足りないものが…。」

それからアルフレッドは、海岸が見える窓に向かって、静かに泣いた。兄のベッドのわきには、妻のエドラと成人した二人のむすこが立っていた。アルフレッドはこの甥たちの性格も好きだった。翌日、新聞各紙は死亡記事を

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