光速の背景  69
次ページ

第3章 発見は誰にもできる
いっせいに載せた。
 「ダイナマイト王アルフレッド・ノーベル氏、昨夕死去!」
 新聞は、なにかの手違いで、兄と弟を混同したのである。生前に自分の死亡記事を読むという経験をした。フランスの新聞のそれは、どこかとげを含んだ書き方だった。イタリアにバリスタイト生産の権利を譲った、とわかると、政府は反感を示した。「どういうことだ、フランスの保護を受けている者が、他国の軍の利益を図るとは! しかも、ノーベルという男は、わが政府から、試射場まで借りている…」
 「あまつさえ、彼はポール・バルブと組んで、わが火薬専売公社を相手に、ぼろもうけをしとるじゃないか。」
 1890年早春の朝、アルフレッドのセブラン研究所に、突然一隊の憲兵隊がやってきた。
 「ノーベルさん。セーヌ県知事の命令により、この研究所を捜査いたします。」
 アルフレッドの実験用銃砲所持の許可は取り消され、あらゆる実験が禁じられた。バリスタイト工場は封鎖された上、テスト用の製品はすべてを差し押さえられる。
 よりによってこんなときポール・バルブが死んだ。しかも、死んだあとがいけなかった。「死去したバルブ元農業相の汚職が発覚!」「パナマ運河富くじ債券発行で、自社の利益図る!」  (会社の資金集めの債券に、富くじをつけてはどうだろうか)とバルブは考えていた。宝くじの発行に神経質な国は多い。富くじの許可をどうするかで、フランス議会はもめる。そこでバルブが動いた。「富くじ債発行の議案に賛成してくれ。」
 運河会社は、パリのダイナマイト中央協会から、大量のダイナマイトを買う約束をしていた。バルブは、富くじ賛成派の議員を集めるために、多額の金をばらまいたらしい。
 これだけではなかった。グリセリンの投機――もちろん、アルフレッドには、内緒で! そして、投機は失敗していた。損害はかなり大きかったものの、アルフレッド自身の金をつぎこめば、会社は救えるとわかった。
 「もう、うんざりです。薄汚い政治屋。自己利益第一の陰謀と不誠実。国家権力の不正な行使…。」実業界からすべて引退したいと思った。――絶え間ない気苦労、ハイエナでいっぱいの世界――自分に向いていない。科学的研究と創作。そこにこそ、自分を真に生かす道がある。
 運命は、これでもかと、打ちのめしにかかる。アベル教授の、友情の裏切りが耳に届いた。「アベル教授はあなたの特許を盗んで作ったコルダイトのことを、ひた隠しにしていたのです」、ノーベル社からやってきた弁護士が言った。「あなたが提供なさったバリスタイト開発の資料を、相変わらず調べているふりをして、政府もアベルとぐるだったのです。」
 不愉快な裁判――1892年から3年かけた訴え――は、負けてしまう。判決の内容には腹が立った。そこで腹いせに――彼らしいやり方だが――『バチルス特許』と名づけた物語を書いて、イギリス裁判をからかった。「正義のなかみには、どこか腐ったところがありますね。」
 1892年、スイスのチューリッヒ湖に、自分で設計した大型ヨットを浮かべ、招待した夫人と、夏の空気を楽しんでいた。
 「すばらしいお船ですこと!」アート男爵夫人、49歳になったベルタだった。 「ベルタさん、あなたのベストセラーのご本、拝見しましたよ『武器を捨てよ』でしたな。戦争の悪を描ききった力作です。

 1893年、アルフレッドは、もう一人、実験助手を雇った。アルフレッドとソールマンとはうまが合った。そのころ、アルフレッドは、銃や砲の改良に打ち込んでいた。「殺人兵器の改良をしているわたしを、どう思うね、ソ
  69
次ページ