光速の背景   70
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第3章 発見は誰にもできる
ールマン君…。」新しい助手と会話を交わした。
 「そう、矛盾しとるよ」アルフレッドは助手の心を見抜いたように言う。
 「実は、この兵器改良という特殊な技術が、なぜかわたしの関心を強くとらえて放さんのだよ。」
 「おかしなことと聞こえるのは覚悟の上だが、わたしは、この兵器が実際に使われるのが、いやでたまらないんだ。戦争に使う兵器なんか、地獄へでも置いてくるがいいのさ!」
 1892年の第4回世界平和会議を、彼も傍聴した。感銘は受けたものの、彼ら平和運動家といっしょになって活動する気にはなれなかった。ズットナー夫人に語ったように、彼らの運動には平和を実現させるための具体的計画が欠けていると思った。けれども彼は、ズットナー夫人と折りにふれ、平和問題について文通することはやめなかった。夫人にあてた一八九三年初春の手紙は、「平和促進について、わたしは次のような結論に達しました。財産の一部を、国際平和のために贈りたいと思います。」
 まず各国民の心に平和への希求を植え付け、それが大きな圧力となって諸政府を動かすこと――それが筋だと思う。彼女はそう返事を書いた。

 「遺言状」、とスウェーデン語でしたためた。(ありがたいことに…)
(わたしには、家族がいない。もしいたら、遺産のために、彼らはさぞ堕落した生活を送ることになったろう。)
 「自分は若い日に《爆薬産業は未来を開く》と確信した。確信は現実のものとなったには違いない。しかし、その未来の質についての考察に欠けていた…。」そしてつぶやく、「未来は、人間が生きるに値するものでなければならない! 遺産の大部分は、その未来を築くのに役立つような科学、文学、そして平和運動の業績に対して贈ろう」と。
 1896年、健康状態は悪くなってきた。「あなたは狭心症です。」油状爆薬は心臓発作の特効薬としても使われだしていた。「わたしのニトロを飲まされるとは!」
 だがその年、彼はモーターの改良や人造絹糸の発明で特許をとった。1896年9月、長兄ロベルトが死ぬと、アルフレッドは急に元気をなくした。その年の12月7日、ソールマンあての手紙を書き終えたところで、急に倒れた。
 ダイナマイト王は、遺言状で親族友人へのわずかな贈与についてふれたあと、「残りの財産はすべて、安全な有価証券に変えられ、利子を前年に人類に大きく貢献した人々に賞としてさずけることとする。利子は五等分して次のように与える。
 …[5項目が掲げてあるが、略す(筆者)]…
 賞のさずけ手は次のように定める
 物理学賞/化学賞/生理・医学賞/文学賞/平和賞
 なお、国籍を問わず、最もふさわしい人物が受賞することを心から望む。」とした。 アルフレッド・ノーベルの、遺書に託した理念が、とうとう実る日がやってきた。さまざまの紆余曲折はあったものの、スウェーデンはついに、ダイナマイト王の残した巨額の遺産を管理する《ノーベル財団》を持ったのである。1901年12月10日、アルフレッド・ノーベルがこの世を去った5回忌の日、第一回のノーベル賞授与式が行なわれた。現在の授与式は、王室の人々を中心にして、正装の紳士淑女多数が見守る中で、重々しく、しかも華やかに執り行われる。そのスタイルは、すべてこの第一回授与式に始まったのである。第一回の物理学賞は、ウィルヘルム・レントゲン博士に与えられた。
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