光速の背景  101
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第4章 未来への道
けによって決定の十分な根拠を与えることはできない、とした。もし、彼の言うとおりに、論理と「事実」が無視される状況が科学組織内部に存在するとすれば、そのような組織は正しい科学を推進し得るであろうか。さきほどの規約(ヽヽ)をアインシュタインに具体例をとってみれば、“光の速さは不変”と規定し、それゆえ、“時刻は場所によって異なる”と規定した。そして近代物理学は平気でそのような規約に従って「時空論」というものを進める。これがどのような物理学をつくり出そうものか、想像してみるがよい。
 また、社会学者は、どれを追試実験とみなす(ヽヽヽ)かといったような本質的に方法論的な事柄も話し合いによって決まるということを示した。こうして、多くの科学史家や科学社会学者は、合理的な信念と非合理的な信念とを区別して説明する必要はないと確信するに至った、というのである。
 どれを追試実験と認め、認めないかを、第一線の科学者によって選別されることで科学的真理が決められてゆくとすれば、真理であるかもしれない考えが不当とされ、そうでない理論が恣意的に支持されてしまう懸念が十分にある。根拠として基づかれた事実が、事実の真理性自体によって理論の真理性が別けられるべきはずであるのに、人間の恣意によって判別される、ということになる。社会学者にさえそういった実情が知られているのである。すっかり信用をなくしてしまった近代物理学の、この学問体制は真理追究のうえで致命的な問題を抱えているといえないだろうか。
 科学社会学者がこのような眼をもってしまったからには、真に合理性のある判定をかれらに期待することは難しそうである。しかしながら、社会学者がどう判断しようと、新しい提唱については、自らが厳しく反証しておかなくてはならない。わたしの新しい説についても、すこしのちに、自己点検をしようと思う。“できる限り最も真実な意見を構成すること、このような意見を慎重に構成し、他人がその正しいことを衷心から確信しない限りは、決してそれを他人に強制しない(J・S・ミル)”ためである。その厳しい規準として、J・S・ミルによる次のような思慮を歓迎したい。

 《自己自身の意見と他人の意見とを照合することによって自己の意見を訂正しまた完全にする堅実な習慣は、自己の意見を実行に移すにあたって、毫も疑念と躊躇とを生ずるどころではなく、かえって自己の意見に正当な信頼を置くための唯一の安定した基礎をなすのである。なぜならば少なくとも明白にいわれる一切の反対論をすべて知っており、また、すべての反駁者に対抗して自己の意見を主張してきたうえに、――自分が異論と難問とを回避せずにむしろ求めてきたということ、当該の問題に対していかなる方面から投ぜられる光明をも遮断しなかったということを、知っていればこそ――彼は、同様の方法を遂行していないいかなる人物の判断よりも、またいかなる多数者の判断よりも、自分の判断のまさっているとかんがえる権利をもつのである。
 自由な論議の矢来が開かれたままであるならば、たとえ一層完全な真理が他に存在していても、人間の精神がそれを受けとり得るならば、必ずその真理は発見されるであろうとのぞむことができる。そして、その間は、われわれは、現在において可能な限りの真理への接近に到達したということに安んずることができるのである(J・S・ミル)》。

   ところで、自説が正当として、あるいは正当かもしれないことを科学討論の場にあげるべき資格をもつと判定されるためには、少なくとも新しい理論に対する具体的な実証方法の存在することを明示しておかなけれ
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