光速の背景  104
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第4章 未来への道
 3 存在論

存在の起源について

 わたしがこの世界に生存し見聞きしていることは現実だろうか。いまこうして現実の世界にいることが、とにかくわたしにとって一つの奇跡だ。わたし以外に植物や動物や人間、友人たちがいて、わたしの問いかけに答えたり、怒ったり、反応したりするのだから、きっとこれは現実だろう。わたしはいかにたびたび、この空間になぜ物が存在するようになったかという根源的な問題に舞い戻ることだろうか。物がどのように誕生したのかという謎から関心をそらすことができないし、ときどき、まったく魂を奪われそうになる。
 おかしなことに、いや、致し方ないというべきか、物理学という学問は、物質の根源を知らないまま、すでに存在する自然がどういった性質をもち、どう働き、その結果何がもたらされるかを、じつに熱心に研究する。人間は、その物質がどこから来たか、には全然気にしていない。どこから来たかを知らずそれに喰らいつき、猛烈な食欲で欲するものを片端から食べるのだから。まるで食欲と物欲を満たすために生まれ、それこそが天与の命を果たしているんだ、という顔をしている。私はそれでよいのか訝る。
 その物質がどこから来たのかも知らないで、それがこれからどうなるのかを究めることができるのだろうか。それが科学だとすると、人類の科学に間違いはない、とはどうして確信することができようか。だからいま、さしあたって自分が入門したいのは、〝存在〟の根源の究め方である。これからわたしが考えることは、もちろんその初学である。間違っているかもしれない。いや、正しいことがたった一発で中てられるとは、いかになんでも思うわけにゆかない。ただ、正しいにちがいないと思うことを私は進める。ふいに目を覚まして日常を見回す子のように、それを始めよう。

 近代の素粒子論では、粒子と反粒子との衝突で物質は消滅するとされる。しかし、どちらも粒子とするかぎり、ともに物質としての「存在」である。その「存在」が突然「非存在」化(消滅)することになる。この構造からは、「保存の法則」が存在するには腑に落ちないものがある。
 素粒子論では、物質はあくまで物質として存在するという考えである。それが粒としてしだいに細かくなっていく。どこまで細かくなれば究められるのだろうか? だが、どこまで行っても、素粒子論では物の存在の起源は説明できない。
 電荷の消滅のように、陽の粒子と陰の粒子が存在し、それらがたまたま出会って中和(消滅)する、と考えられてもいるようである。しかし電気に関する陽も陰も、概念的には物質(質量を持つもの)としての存在ではないはずである。もちろん、では電気の陽とか陰とかいうものは何ものであるか、という問題はあるが、物の存在ではなく、現象、あるいは現象の性質としての存在であるなら、もともと物質としては無と無の中和であるわけだから、それらの消滅が起こってもまったく矛盾はない。
 一方、粒子となると、それは質量をもち、よく言われるようにその質量が反粒子という存在と出会って消滅するものだとすれば、質量と質量の和がゼロになる、ということになる。反粒子の「反」の意味が、数学上の負を意味するものであるか?ということになる。それなら、初めから「負の質量を持つ粒子」と言えばよさそうなものだ。しかし現実的には、負の質量とはどういうものであるか、どうにもイメージが湧かない。 ところで、素粒子論では粒子の寿命はきわめて短いとされる。手持ちの「理科年表」(1992版、2008版)で調べてみると、その平均寿命は、例えばμ粒子で2.2×106秒、π中間子で2.6×108秒であるという。もっと
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