光速の背景  105
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第4章 未来への道
も、平均寿命(=半減期/loge2)とは、粒子数がもとの数の1/eに減少するまでの時間である、というから、跡形もなくなるまでの寿命ではない。eは自然対数の底であってe=2.718…である。つまり粒子の寿命とは、ある粒子が分裂し、新しく生まれた粒子が、つぎの分裂または融合によって、べつの粒子に変わるまでの平均時間ということになろう。したがって、消滅するまでの寿命というわけではない。
 人の一生も同じようだ。生まれて死ぬまでの一生とは、まず原子・分子が組み合わされて受精卵の形をしていて発生を始め、母体から出て動き回り、自らの二世を複製し、老衰して再び原子・分子に分解する。一生のうちの一瞬でさえ、原子・分子の組み合わされ方が変化しつつあり、その前後の一瞬たりとも、同一体ではない。だから、きのうしたはずの約束を今日破棄する、というようなことが起こる。生まれてから死ぬまでの生涯という存在があり、一瞬ごとの存在がある。その一瞬先は未来であり、一瞬後は過去であって、すでに“ある存在”は消滅している。
 また素粒子論では、素粒子の質量はE=Mcの関係により、エネルギーの単位であるMeV(メガ電子ボルト、研究者間では「メブ、とかゲブ(GeV)」とか呼ばれているようだ)で表わす。なるほどこれなら、極微の粒子の目方が何グラムであるかを計量する困難な手間から解放される。だが、これでは粒子の運動速度如何によって、そのつど真の質量が変わることになって、なんだか騙されている気がしてならない。もしも、E=Mcという有名な式が、まんいち間違っていたとしたら、どんなことになるだろうか。
 反粒子、たとえば反クォークとは、逆符合の電荷を持つ、と「理科年表」には出ている。そうすると、粒子と反粒子とが出会って消滅するというのは、物質として消滅するわけではなく、電気的中和にすぎないようである。「理科年表」には、さすがに、物質が反物質と出会って消滅するとか、E=Mcがアインシュタインによるなどという記述が避けられているようで、うそは書かないという気遣いが感じられる。

 粒子と反粒子との出会いで消滅する、という考えが、私には納得しがたいものであるが、そういう理論からすれば逆も起こりえて、無の中から粒子と反粒子が対になって突如出現するということがありえなければならない、ということになろう。そうでなければ総体としての質量保存は成立しえない。現在物理学が認めているところによれば、粒子と反粒子との結合は激しい反応で、膨大なエネルギーとなって消滅すると説明することもできる。それは質量エネルギー等価説にほかならない。
 しかし、ではそのエネルギーとはいかなる形態のエネルギーであるか? もはやそれは物質としての()ではないわけだから、粒の激しい運動としての熱エネルギーでも、粒の放射エネルギーでもなく、もちろん、位置エネルギーももたない。こんにち考えられる残されたエネルギーは、電磁波ということになろうか。
 それで物質としては「非存在」となり、“現象”としての「電磁波」になった、と考えざるをえない。総体としての保存則は保たれると考えることはできる。この際、質量保存の法則は成立しない、としなければならない。すなわち、これまでの物理学に言う「質量保存の法則」は、物質の誕生・消滅(エネルギー変換物理)では成立しないことになる。
 こうしてわれわれは非常な困難に出会うことになる。もうひとつの非物質としての存在である“電磁波”というエネルギーは、ではいったいいかにして生じているか?という問題である。物質としての質量が消滅したのに、電磁波のみが残りえるか?
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