光速の背景  72 次ページ
第4章 未来への道
持することよりも、真理を追究することのほうが最大の関心事であって、より正しい理論をみつけることに喜びを感じるものであろう。かくして、学位のない者は、より正しい推論へ、理論を推進させる特権を持つわけである。


――ずっと前からわたしは、時間とは人が勝手につくった概念にすぎず、自然界に存在するものではないと考えている。便宜上、物の変化の速さを観測するために共通な間隔として“時間”という概念を創設し、これをだれにも共通して通用するために、それを振り子の周期で決めたり、水晶の発振周期で決めたり、近年にはセシウム原子における準位間の放射の周期で決めようとしている。どの基準によっても、同じ基準を採用しているかぎり、理論はその時間を用いて進めることはできる。そんな、人の勝手な“時間が空間と結びつくわけがない。


――(わだち)のあとを辿りたがる人は、生まれてより安泰に、レールのうえを歩まされる。そうしていれば何の心配もなく、しかも早道だから。それにまた、理解が早くすなおで、育ちのよさをさぞかし示すだろう。いわゆる秀才として。だから存外かれらが天下をとってしまう。


――しかし人々は、その轍が、あるいは誤謬の底なし沼へつづく一本道であるかもしれないことを、疑おうとしないのはどうしたことか。


――学者たちは、まったくの真空中を光は走ると考え、それ以上のことに考えつかない。アインシュタインの珍説のため、その思考を停止してしまったからである。夢のなかの人のように、光のたよりない空間にあって、物体の絶対静止空間がどこにあるかが定まらぬと同様に、科学者たちはただ、その光はだれにとってもまったく同じ速さである、として片付けてしまった。


――しかし、私たちの『幻子論』では、
光波を伝えるエーテルが独立に存在するのではなく、物質が物質の存在と同時につくっている「場」を、場の性質の相互作用という振動として光は走る、と唱えるわけです。



――幼児があびせる「どうして?」という疑問は、人が幼児期にはもっていた能力であり可能性である。現在の教育はこれを潰す。それゆえこの従来の教育理念にとって、そういった新しい教育理念は、現教育に対する反逆である。


――天才たちは、他と争わねばならない。ピントの外れた矛盾の多い愚論にがまんがならないし、闘争心という、あえて表現を変えれば、野獣的……表面に表わすまいとする品行を備えていたとしても……精神を持たなければ、天才の理論を達成できない。それゆえ、天才とはしばしば孤独である。反面、因果の関連性を無視する奔放な、人気者ではある、天才まがいの怪しい科学者たちが物理学を引っ掻き回している

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