光速の背景  76 次ページ

第4章 未来への道
やかにした。出来のわるい物も、折からのバブル景気で有り余った金をかけてタイルだの石だの金属パネルだのといったもののパターン貼りや色付け、装飾とは呼ばせない意味ありげな付加物をつけるなどしてひと通りの身づくろいはできた。失敗作もかえって“よし”とされ、何でもありということになる。どこか現代物理学に似ているような気もする。経済の崩壊とともに短期間の皮相的なものに終わった。再びモダニズムへ戻ろうかと迷っている。
 1990年代以降は新素材の活用と大資本技術とコンピュータを駆使した暴力的とも思える強引なフォルムを表わすものや巨大建築が進んでいる。驚嘆すべきではある。しかし、味わいはどこにもない。わたしは、近代建築に属するであろうフランク・ロイド・ライトのロビー邸と、ミース・ファン・デル・ローエのファーンズワース邸と、白井晟一の呉羽の舎に、内から湧いてくる味わいと哲学的美をたまらなく感じる。いつまで眺めていても飽きない。大勢が参加してつくりあげるものよりも、あるひとつの、妥協を許さぬ、磨き上げられたものに感動が起こるのだろう。ああでもよければこうでもよいといったところのない美しさである。ヴィナスの像やダビデ像のような完成度がある。
 わたしにとって印象に残る、わたしの時代の建築には、1963年の村野藤吾による日生劇場、1964年の丹下健三による国立代々木競技場、1967年の、白井晟一による親和銀行本店(その前の大波止支店も)、1968年の山下寿郎による霞が関ビル、1973年の佐藤武夫による北海道開拓記念館、1973年のヨーン・ウッツォンほかによるシドニー・オペラハウス、1973年のミノル・ヤマサキによるワールドトレードセンターがある。(そのワールドトレードセンター北棟と南棟――ともに高さ415m、110階建て――は2001年9月11日、9.11同時多発テロ事件――イスラム系国際テロ組織が民間機2機をハイジャックしておこした自爆突撃――によって相次いで跡形もなく崩壊した)
 わたし自身は拙著『忍びよる闇』に掲載したほかいくつかの仕事しか残し得ていないが、それまでに存在しなかったものを作り出すという、わたしにとって携わっていること自体が楽しいことであった。

 1998年、わたしが物理学へ舞い戻る契機となったある運命的な出来事がおこる。それは1995年、やっと我家の建設にかかったことから始まる。茨城県つくばの科学万国博覧会跡地に近い。鉄筋コンクリートの壁式構造で「窟居」と名づけ、これは他人の家ではできない、さまざまな試みを実行した、実験住宅である。もちろん、失敗はしないという、確実な裏づけあってのことだ。証拠現物として後世に残す価値があると、自らは意気込んでいた。
 96年には居住が可能になり、ほぼ完成と言えるのは98年である。これからは室内外に仕上げを工夫してゆこうという、そのとき、楽しい未来を描くはずの家に魔の手が伸びていた。この区域に県は区画整理事業を計画していて、こともあろうに我が家の真上を通すという、道路予定のはっきりした位置を98年9月、初めて示した。
 驚愕に震えたわたしたちはもちろん変更を申し入れる。まだ決定前であって、この集落をつぶす必要のない空いた土地を通せることも示した。懸命の訴えにもかかわらず、県は再考しようとはしない。それどころか、役人のなかには、たった一軒の楽しい希望を摘みとる権力を自分たちは当然に行使しようというのに「なぜこいつは刃向うのか!」という怒りを露わにする者もいた。 99年1月、わたしたちは都市計画手続きを一時待つように裁判所を通じて仮処分を申請、2日ののち計画変更の本訴も裁判所へ提出した。県はわたしたちの要求を無視したまま、2月、縦覧を実施。形ばかり受
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