光速の背景  77 次ページ

第4章 未来への道
け付ける意見書をわたしは提出し、当該計画道路は現国道354号線と重複して走るもので著しく有害な計画であることにも言及した。水戸地裁は6月15日、まだ計画決定したわけではないと却下。その直前の6月10日に県は都市計画決定を発表する。わたしたちは空しい控訴をした。
 公権力によるこの腹立たしいいきさつは『忍びよる闇』に詳しく書かれている。控訴の2審のあいだに、ストレスと苦痛から心臓に不調をおこし、7月、緊急入院。まだ在住していた東京都内の病院であった。ICUの窓から、激しい落雷の光が部屋じゅうに走って、わたしの心臓が驚いた日の前日であった。その後、カテーテルによる手術は、手術による組織の破片から脳梗塞になる危惧もあったが幸い事無きをえた。


苦難の先にともる光

 この争いを機に、わたしの建築の仕事は滞り、ついに建築に関わる活動の幕を下ろす。解放されたわたしがぐるりと全体を眺めているうちに、気掛かりになっていたビッグバンへの疑問が頭をもたげた。そのころ放送大学やテレビ番組で盛んにビッグバン理論なるものを見かけていた。
 自由の身のわたしは2005年2月ころから、徒然草のようにそのことを書き始める。ほぼ形らしくなった7月下旬から出版社に働きかけるが、そう簡単に興味を惹かないようだ。

そんなときS出版社から電話が入る。その評から、もうすこし暇をいただいて、10月頃再び提出した。出版を約束してくれたS社はなかなか取り掛かろうとしない。それで時々催促せざるをえない気持ちになった。

 ――《この本をS社で出版されることを熱烈に希っている。特殊相対論の1905年から100年を経た2005年、アインシュタイン・ブームがさほど顕著でなかったのはビッグバン理論の破綻が暴露される懸念があったせいであろう。2005年2月の朝日新聞による新銀河団発見の発表が密やかに報じられたのも、おそらくそれが理由である》 そんな風に書簡にしたためた。その年の11月4日のことだった。この星団はもっと前年くらいに知られていたものだ。本来なら大見出しでお祭り騒ぎをしたかったであろう。
 それからいかにたびたび書簡を送り続けたことだろうか。 

フランスの諺にいわく、注いだぶどう酒が飲まれるわけではない。さてわたしがこれからどのような運命を辿るかは、わたしがS社K氏へ宛てた書簡がなにより具体的に表わしているのを見る。これから書簡の内容に沿ってお話しよう。

年改まり、2006年1月31日となった。出版意志は維持されているのかを心配しながらカール・セーガンの著書を読んでいた。その中に
 「現代では社会通念的に真理だとされていることのうち、どれが次の時代では許すべからざる偏見だと見なされることになるのか、という不安だ。自分では意識せずに私たちにこのような教訓を与えてくれたブローカーに報いる方法のひとつは、私たち自身が抱いている最も強固な信念を深く真剣に疑ってみることにほかならないのだ。(『サイエンス・アドベンチャー(上)32頁』)」
 という記述を見、私の対相対論をふり返って、彼のつぎの言葉に勇気付けられた。

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