光速の背景  83 次ページ

第4章 未来への道
根底に関わるとても重要な問題なのです。これからもっと進んだ物理学が重ねられるでしょう。光の問題のどちらに立つかで、その真否が大きく別けられるのです。相対論の言う光速はとても矛盾したもので、じつはMGP実験によって、それが実際に違うことを実証されてもいるのです。そのことは相対性理論にとって都合がわるいため世間ではそっと伏せられています。でも、自然科学では不都合なことを隠してはなりません。
 こんどの本は、人はなぜ過ってしまうのか、人間の本性にも触れています。なぜ触れなければならないかと言いますと、あなたは、社会が一向に正しい考えを受け入れようとしないものだなと思ったことはありませんか? まさしく、科学の問題でもたとえ正しい考えであっても、なかなか受け入れ正そうとしない社会が形づくられているからです。――

 書の中で述べるように、特殊相対性理論のもととなった「光速はそれぞれ別な等速運動をしている誰にも常に同じである」というのが、わたしにはどうしても腑に落ちないものだった。光速は誰にでも一定ではない。観測者の運動につれ、相対的な速度を持つはずだ。そのときわたしには誤謬を嗅ぎつける勘が働いたのかもしれない。しかしそのためには、光が何に対して光速cをもつのか、を明らかにしなければならなかった。もちろんわたしにも、そんなことが初めから分かっていたわけがない。
 第1章でみたように、光学に関する多くの研究を行なったニュートンは《人並みはずれた、絶え間ない集中的な内省力》と《非凡の直観》を備えた人であった。L・ローゼンフェルト教授によれば、その彼は終生エーテル仮説から逃れることができず、『自然哲学の数学的諸原理』の中では、失望のうちに『光学』の疑問集で一連の痛ましい所信の放棄がみられる。自然と人類に関する神の計画を読みとろうとする試みにおいて、なお「未発見の真理の大海」の岸辺にある自己を知ったニュートンに、深い諦念をもって「われ仮説を得ず」とつぶやかせている。光がどのような道を通るのかは、それほど謎だったのである。

 その謎、光速とは何に対する速さであろうか? どうやってみても矛盾が起こってきてしまうこの問題をわたしは絶えず考えつづけた。


運動の本質
 光速という得体の知れないこともさることながら、運動というものからして、われわれはよく把握していたであろうか? われわれはいったい何に対して運動しているであろうか? われわれは運動というものを、互いの衝突などといった特定の状況に至ったときに初めて、他に作用する能力をもっているものだと思ってはいないか? 運動とは、他との単なる時間的位置関係である、という考え方をしていないか? その表記を座標という、人が考え出した幾何学的道具によってすれば、運動の何たるかを解明できると考えてはいなかったか? そして、あれとわたしとの間には空気があるだけ、さもなくば真空のなにもない空間が広がっているだけである。あの物体がわたしに及ぼすであろう影響は、不幸にもあるいは幸運にも、あれとわたしが衝突したときだけである、と。それさえなければ、ただあれが大した勢いをもっているものだとよそよそしく感嘆するのみである。すなわち、あらゆるものの勢いとは、わたし自身に対する勢いにかぎる、と。
  われわれは次のことなら知っている。運動する物体は「勢い」というものをもって、その勢いで他を動かし、その勢いを分けてやれる。あれは他を打ち砕き、熱に変え、無数の火花や放射線に一変させる能力をもっている。だがそれらのことは、それが衝突によって初めて起こることだと認識してはいないか。その観察を、座標という幾何学的道具によって解明できると考えてはいないか? もしかすると運動そのものよりも、その裏によこたわる
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