光速の背景  144 次ページ

第6章 なにが学問を遅らせるか
物語だ。なぜといえば、“物理”が通っていない。質量が重要なのは、物の質量のために物の運動速さが変化しにくい、つまり、慣性を持つこと(新聞による説明はおかしい。あれは粘性というもので、粘性には物質を集中させる性質はない)だけではない。質量は万有引力の元である重力場をつくっていて互いのあいだに引力をつくる。こちらのほうが、断然重要なことだ。理論が言うようにヒッグス粒子以前の粒子たちが質量はゼロだったとすれば、それまでの全粒子の運動エネルギー(つまり熱エネルギー)は、ゼロだったことになる。高温高密度は、ヒッグス粒子の出現以後に、起こらなくてはならない。想像してみても、全然筋が通らない。

 ビッグバンという出鱈目と、相対論の嘘から、最新鋭の物理学(モンスター)は起き上がり、猛烈に走り始めた。世界が総がかりでCERNにつくった大掛かりの施設は税金の無駄遣いでないことをアピールするために、民衆を驚かす何かを発表しなければならない。ヒッグス粒子という得体の知れないものは、それにもってこいだった。すでに、ノーベル賞に値すると口走る者さえいる。こうしてメディアによる圧力から、ノーベル賞委員会は、このウソに、またまたノーベル賞を贈ることになるのかもしれない*。人類時間の最先端である現代は人類史上最も幼稚な時代だ。言い出した人の面子を守ろうとするのは、人としては美しい行為である。しかし、こうして大勢で造り上げる美しき民主主義的科学理論は、ろくなものを産み出すまい。これがわたしの率直な感想だ(2012.7.5)。
 この派手な発表のためには、ビッグバン理論の基となっている“超光速は存在しない(すなわち相対論) ”が破れていては困る。なぜああもせっかちに接続不良などという簡単なコメントで片付けたのかは納得できよう。
 物理の真実よりも、さしあたっての大実験施設の意義を高め、職場を守ることに意が注がれたとしても、それが人間がつくっている社会というものであろう。であるとするなら、大勢がかかわっている大型の研究機構は真に守るべきものを守れるのだろうか。

2013年10月8日、2013年のノーベル物理学賞は英エディンバラ大学のピーター・ヒッグス、ベルギーのブリュッセル大学のフランソワ・アングレール両名誉教授に授与されると発表された。

新提唱に茨の道
 これまでに発表された実験結果によって、相対論の一つの結論「物は光速を超えない」が破れたと、少なくとも一時は思われた。元々この奇怪な理論の起こった発端は「光速不変」という不条理な仮定にある。どんな動き方をしている誰にとっても光速は同じであるというのが「光速不変」である。音波の場合は、音源へ近づこうとする者には音は早く届き、遠ざかろうとする者には遅く届く。音源のほうがこちらへ近づく場合や、こちらから遠ざかる場合の音速はこの空気中――この場合空気は音波の媒質だ――で同じである。音波は音源をではなく媒質を静止座標として音速を持つからである。
 光波の場合はアインシュタインによってその媒質(エーテルと呼ばれる)は存在しないとされた。そのように出発して組み立てた理論が相対論である。これを進めると、先ほどの「何者も光速を超えない」が導かれる。 その得体の知れない空間論に対し、我々の新しい理解は、光のエーテルは重力場であるとする。相対論の最初の仮説「光速不変」が破られるには光の相対速度が観測されたらいちばんはっきりする。そのためにはその相対速度が、地球の重力圏から離れた宇宙で検出する方法が現実的であり、かつ可能だ。その重力場(静止座標)は、太陽の移動速度および太陽系に 
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