光速の背景  150 次ページ

第6章 なにが学問を遅らせるか
ラムは9×1020エルグ、すなわち3×109グラム(3000t)の石炭を燃やして得られる熱に等しいエネルギーの存在に対応するであろう。…》
 空間および時間の進化について、
《物理学者たちの注意は最近では、新しい実験的事実のために修正を余儀なくされている空間および時間という基本的概念のほうにひきもどされている。人間的経験のますます精細になってゆくということ以上に、これらの概念の経験的起源をよく示しうるものは何一つとしてない。…
 もとより、われわれの頭脳が思惟のこのような新しい諸形式に習熟するのは困難なことであり、それらの形式について熟考することは特に厄介なことで、十分に適当な言語の形式によってのみそれは助けられるであろう。これこそ、人類の進化を容易にするために、こんにち、哲学者たちや物理学者たちが協力すべき課題である。》
 この教育論のなかで、この書物『科学教育論』が相対論を肯定するような明確な表現を避けたのは、賢明であったと僭越ながら私は思う。しかし、この先に述べられることのなかには、私が否定はしないものの批判的に述べている近代理論――量子力学やマクスウェル電磁気学など――に関しては肯定的な趣旨が含まれている。もっとも、この件に関してはなんとも私にも言い様がない。

物理学の教科書に一貫して見られる性質、として、
《…甚だしきに至っては、叙述は多くの場合教条的な形でなされ、どこからとも知れず天下り的に法則の記述がとびだし、物理学者は単に検証するだけの態度しかとらないのであります。検証が終わったとき、物理学者が、記述された法則は厳密ではないし、定説ではその法則の本質に反する修正を必要としているのに、それに修正を加えることはできない、と付け加えなければ、まだしも幸いです。実際マリオットの法則はそういうものです。この法則を否定する実験のほうがまちがっているとされ、この法則について生徒の心のなかには、通常ルニョーの装置のこみいった記述しか残りません。…(以下略)》
 ここでランジュバン氏はいかなる問題を提起しているか。私なりには、想像ごとや、複数の仮定から組み上がった仮定、数学の便利に魅せられた抽象や置換といった、これらのことから進められているものはあくまで暫定のものとして取り扱われるべきで、それをあたかも定説のように扱ってはならないと考えている。波動を微分しやすいエキスポーネントeを利用して量子化という数式化を行い、流行のようにして素粒子の運動を抽象化している。科学者の多くは自然を数学(ヽヽ)()ではなく、数学(ヽヽ)()自然であるかのように表わそうとする。自然の描写を虚数iを用いて記述してよいかどうかは、自然からの赦しを前もって問うべきであろう。
 三重以上の仮定を理論として積み重ねてはなるまいし、そうしてよいのは第一仮定が実証されてからのことであるべきだ。仮定の上での仮定の実験を行なって仮の結果を実証結果とされてはよろしくない。ところが、世界中でそういうものを付け足している。
 仮定の式、たとえば電荷間の静電気力のポテンシャルU(r)の式(このUr)=ekrrの式にはk=mchとしてなぜか光速cが含まれている)をつくって、キャベンディシュの実験――電子間引力の逆二乗法則において分母の2乗の2には、わずかなずれ±qがあるのではないかとする――のような思い込みの装置から得られた思い込みの数値qを用いて、光子の質量mが求まってしまうことを光が光子であることの結論であるとはゆくまい。しかし、こういった仮のことを掛りきりになって考えてみた当人をして、いかにも光は実際に粒からなると思わせてしまうことだろう。 発達した数学的発論と自由発想の流行とが渾然一体となって、世界同

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