不定期便55号   2012年6月30日   
実験に不具合?    


 4月ごろ実験(欧州合同原子核研究所(CERN)による)に接続不良が見つかり、光速を超えるニュートリノ観測値に誤りがある可能性が発表された。6月に予定されていた再確認実験の結果に関して、早々と6月の初め、普通のプラグ・ジャックを映し出したテレビ放送で、接続不良がみつかり「その後超光速粒子はみつからない」と報道された。
 以後、詳細な放送は見かけない。この件に関し、私が抱いている不信感について述べたい

乏しい情報から察するに、接点が接触していないなら、観測値自体が存在し得ないはずではないか? 接触しているなら、観測値は読まれよう。その場合の接点が通信を遅らせる明確な理由はなんであるか、不明である。


依然として相対論は誤りだ

それはそうと、それ以降のデータでは、秒速何qの粒子を観測しているのだろうか? もちろん、超光速が観測されないこと――光より遅い粒子の存在――は相対論によらず、あって当たり前だ。電気的中性であるニュートリノを、直接加速器で加速することができないとすれば、加速した陽子を原子核(あるいは陽子)にぶつけて、その崩壊によって飛び出すニュートリノを捉えるのであろう。さすれば、ニュートリノ粒子が常に理想的な高エネルギーが与えられているとは限らず、多くの場合、撃たれ損なうにちがいない。そんな個別の例が、光速より遅いからとて、相対論が正しいことにはならない。反面、相対論が間違っていることの証拠についてはかねがね申し立ててきたことであるが、まとめておくと、

 @速いものは時間が進まない(遅れる)とは、まともな頭脳の結論であろうか。
A
速いものは寸法が縮むというが、陽子シンクロトロンは、そんなことは起こらないことをいつも見せている。
B
光速は不変(光の相対速度は生じない)という。しかし、地上で輪にした管内を互いに逆行させる光は、地球自転により片方は速く、他方は遅いという相対速度が確かめられている。
C
重力場では光速は遅い。この件は正しいと私も思う。
D
光は重力場のほうへ曲げられる。この件は一部、現象的には一致するところがある。しかし、空間が曲がっていたり光子が重力に引かれて落下するためではない。
E
物は光速を超えない。今回の報道によって、今のところ光速度を超える物質の存在は観測されないと訂正された。が、また再訂正される日が来ると私は見ている。

AとBは実在する実験によって相対論の誤りが明確にされている。CからEについても、これらは相対論としての一連のものであるから、それら(@からE)の1つにでも破綻があれば、全体は誤りといえよう。紛らわしいCとDについて述べなくてはならない。
 光速は重力場が強いほど進行が遅いと自分も認める。なんとなれば、この性質は以下の原因説明に合うからである。ホイヘンスの説明にある、水中やガラス中への屈折の現象は、重力場の大きいほど光速は遅くなることに適合する。密度の高い(重力場が大きい)ほうへ光が曲がる理由は次のようだ。
 傾いて入射する光の束は、重力場の大きいガラス中よりも、すこし長く走る外側の空気中のほうが、同時間のあいだに速く進む。その間、内側の先に入った光は遅いため、隊列行進のように、ホイヘンスが説明するとおりの屈折を見せるのである。ガラスから出るときにも同様の原理が働く。
 同様に、太陽重力場の太陽に近い空間で光速が遅れ、レンズのような働きをすることが認められる。重力場で時間が遅れるからでも、太陽の重力によって引かれるからでもなく、「重力密度の高いところで光速が遅くなることによって生じる屈折である」とするのが、他の現象説明とよく一致する。

 再実験が光速を超えなかったとしても、ニュートリノは光速に極めて近い速さを持っていることは確かだろう。当初は光速の0.0025%ほど光速を上回った、と発表された。
 つくばの陽子シンクロトロンでも、粒子は光速の0.1%ていど遅いだけの速さには普通に加速されている。スイスジュネーブの欧州合同原子核研究所からイタリアのグランサッソ地下研究所までの飛翔実験では、それ以上のニュートリノ加速はあったであろう。ではその速さは、何に対する速さであろうか?
 実験では地理的な距離を走行時間で除したものとして粒子の速さとされていよう。それは本当に光速度に達し得ないであろうか? 仮にそれが当初の発表とは逆に、光速より1億分の6秒不足していたとしよう。粒子の発射地点が地球自転のために秒速0.45qで西から東へ動いているなら、到着地点もほぼ同じで、粒子は光速にその自転速度を加えた速度を地球中心に対して持っているはずだ。その結果、光速にさらに迫るだろう。
 さらに、太陽に対する地球の公転速度30q/秒が加わった粒子は、太陽を基準におよそ30万30q/秒という、間違いなく光速度を超えた速さを、現実に持っていることになる。なぜなら、粒子がイタリア半島に対して光速に近い速さを持っていても、地球は依然として、太陽に対し30q/秒で公転しているのだから。地球もイタリア半島も、太陽に対しては同じ公転速度を持っている。奇妙な相対論をもってしても、「速さの違う者同士は時間が違う」という珍理屈も立たないから、cとυは単純に足されなければならない。

――なぜ誤るか――

自然法則は単純だが、人類はそのすべてを正しくは理解していない。自然法則の折り重なった現象には、法則の幾通りもの組み合わされ方があり、その複雑さはまた進化を遂げるのだ。きょうの正午に岸壁から見られた海上の木屑が、明日正午0分0秒にはどこにあるかだけのことさえ、われわれの物理学を総動員しても、予見することはまず不可能だ。
 正確にこれを予見するには、宇宙に存在する万物の位置およびそれらの質量と各速度を把握しなくてはならない。それが知られたところで、誤解の多い人のつくった、これらを表す方程式は複雑極まりないものになるだろう。この自然法則の下に、自然に起こるすべてのことを統率しうる者は、法則を創作し給うた神以外にない。神だけが明日正午0分0秒にあるべき位置に、あらゆる法則に寸分違わず正確に置く。
 しかし人類は甚だ大まかになら、その木屑が存在しうる“範囲”をほぼ確実に判断することはできる。その絞込みこそは、物理学の進歩によって狭められるだろう。だからもし、その判断基準が物理学の真理性に拠らず、興味本位の多数決や権威者の気分によって決まるなら、物理学のあるべき姿は絶望的な方途へ進まざるを得ない。なぜなら、自然の現れ方や決まり方は、(人間の多様性を決めた決まり方と共に)人間たちの多様な思慮や好みによる合意、以前に存在するものだからである。


――仮説の真否――

 ある現象の説明のために前提にされることが仮説であるとして、その仮説が仮説の原因となった現象を説明しえるだけでなく、その仮説が他の既知の自然法則に矛盾もしくは反しないことが確認されない限り、仮説としての信憑性を得ず、議論すべき対象とはならない。
 理論または仮説の中に、上のような矛盾や疑問が明確に存在するにもかかわらず、定説とされたものであるなら、その定説はかかる不具合(バグ)を含みながら、他の新しい理論の材料とされた新たな誤った説(バグ)となって増殖する危険性を持っている。そのような定説が放置されることは、もしも自然科学が自然の現れの中に真理性を求めようとする学問であるとすれば、自然科学界にあってはならない。
 しかしながら、現実的にはわれわれの物理学では、救いようもなく平気で、それらを放置してある。
相対論のほかにその例をいくつか挙げるならば、宇宙膨張説(ビッグバン理論)や万有引力の法則における「万有引力は物体の重心からの距離の2乗に逆比例する」などがある。
 宇宙膨張説は、全天の星は遠い星ほど赤み掛かって見える(赤方偏移)ことから、それはドプラー効果によるもので、地球から星までの距離が離れつつあることによって起こると考えたことからできている。
 たしかにドプラー効果は星が地球から遠ざかっているか、星たちから地球のほうが逃げている場合に起こる。もしも赤方偏移はドプラー効果によるとすることが正しければ、星が遠ざかっているか、地球が逃げているかのどちらかである。だが、地球は全天のすべての星から逃げることはできないから、すべての星が地球から遠ざかることによるしかない。これは地球が全宇宙の中心であることになり、誤りとするほうが正しいであろう。
 万有引力は物の重心から及んでいると理解している人がほとんどであろう。つまり実際には重心からの距離としたとき、真の重力場からは誤差が生じることを知る人は少ないであろう。
 このような基本的なことさえ、物理学者の多くが無頓着のままである。難しい数理理論をいくら考えても、それが物理に、真に合っているのかどうか、具体的に何を意味するのか疑わしいままでは、一般の進歩には役に立たない。



――物理学の自由論――012.6.17

   1
 われわれは学府が完全に市民と一体であって、従って、市民の考えと一致しないかぎりは、いかなる強制権をも行使することを欲しないという場合を想像してみよう。この場合においても私は、市民が自身でやるか、それとも学府の手でやるかを問わず、いずれにしても、市民にかような強制権をも行使する権利があることを否定する。このような権力は、それが世論に従って行使せられる場合にも、有害である。仮に一人を除く全人類が同一の意見を持ち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮にその一人が全人類を沈黙させる権利をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない。
 意見の発表を沈黙させることに特有の害悪は、それが人類の利益を奪い取るということなのである。すなわち、それは、現代の人々の利益を奪うと共に、後代の人々の利益をも奪うものであり、また、その意見を懐抱している人々の利益を奪うことはもとより、その意見に反対の人々の利益をさらに一層多く奪うものである、ということである。もしもその意見が正しいものであるならば、人類は誤謬を棄てて真理をとる機会を奪われる。

  2
 権威によって抑圧せられようとこころみられている意見は、あるいは真理であるかもしれない。それを抑圧しようとしている人々は、それが真理であることを否定する。しかし、彼らは不可謬ではない。その問題を全人類のために決定し、他のあらゆる人々が判断する手段を排除する権威をなんらもってはいない。
 それの誤っている事を彼らが確信しているという理由で、ある意見に耳をかすのを拒むことは、
彼ヽらヽのヽ確信をもって絶ヽ対ヽ的ヽ確実性と同一視することである。
 権威者の服従に慣れている一般の人々は、ときとして自己の意見の論駁されることを聞き、またまちがった場合は、その誤謬の訂正される機会を全くもたないわけではないのであるが、この人々は自分の意見のうち周囲の人々すべてと意見を同じくする部分、自分が平素尊敬している人々と意見を同じくする部分に対してのみ、絶対の信頼を置くのである。なぜならば、ひとは、自分の孤独の判断に対して自信がなければないほど、いよいよ盲目的な信頼をもって、「世間」一般の無謬性に依頼するようになるのがつねであるからである。

   3
 時代というものもまた、個人に劣らず誤り易いものである。各時代は、後の諸時代が、単に誤謬であるのみならずばかげたものとさえ考えた多くの意見を抱いていた。そして、かつては一般に信じられていた多くの意見が現代によって拒絶されていることが確かであるように、現在一般に信じられている多くの意見が、未来の時代によって拒絶されるであろうことも、同様に確実なのである。

 2012年 6月 30日発送