相対論は間違っている
光の速さは一定か 3

MGP実験の考察

地面に水平に置かれた長方形のリングは地球の自転と共に水平に回転運動をしている。その回転運動は、極地であれば一日あたり1回転の2π(360度)である。赤道付近では回転は生じることなく0である。イリノイの草原がある緯度では中間的な回転速度を持つ。その緯度がψだとするとSinψを乗じた値で回転している。

さて、相対論者の言い分はこうであろう。地球の自転に伴いこの長方形のリングも回転運動をしており、同じ方向へすすむ光は回転速度分だけ時間が縮む(時間が進む)。片方は時間が伸びる(時間がゆっくり進む)。両方の時間差が干渉縞となって現れる。

しかし、相対論は運動するものはその速さに応じて長さが縮むことになっている。その代わり時間のほうがゆっくり進むということになれば、結局干渉縞は生じないはずである。したがって、相対論が正しければ、時間が遅れるだけ寸法が縮み、結果光の到着に両光の差は生じることがなく、干渉縞は生じないことになる。

マイケルソンの最初の実験、地球の公転速度による光速の差が見られなかったのを相対論に一致したと言うならば、このリングの実験についても、差が見られないものでなければならない。

私の考えでは、このリングの回転は、これに対向する光にこのリング速度分だけ相対速度を上昇させ、早く周回させる。互いに逆方向の両光はその相異を倍化させることができ、先の単に直角二方に別ける装置に比べ画期的な意味を持つ。あの直角二方方式は、光の絶対座標に対し地球が宇宙空間で運動している様々な動きを、刻々の相対速度として拾ってしまうことになる。

それに対し、リング方式は、リングの外のいかなる並行運動も相殺運動として消去し得ている。自体の絶対運動こそ捉えることは出来ないが、リングの回転速度のみを純粋に捉えることは出来たのだ。

閉じたリングは、渦のあるなしを検出する。例えば川の流れの中で、流れの全てをあるリングに沿って積分(加え合わせ)するなら、その合計は0である。もしもそれが0でなく、ある値を持つ場合には、その流れはリングの内部に渦を含んでいると知ることができる。

MGPリングは、まさに流れの中の外的な運動すべてを排除し、地球の自転という、リングに生じる純粋な自転運動を検出したことで画期的である。マイケルソンが生涯、存在を示そうとした光のエーテルとは、畢竟、私たちの言う光自身のつくる「場」に他ならない。

シャンクランドはアインシュタインへ手紙を書いている。おそらくシャンクランドはオドンネルから実験の意味を聞いたことだろう。得られた結果は相対論の光速の仮説に矛盾したものであった。アインシュタインはシャンクランドへこう返事している。

「1953年9月17日

親愛なるシャンクランド博士へ

マイケルソン-ゲイルの実験は、もちろん相対論の問題に関わるものです。しかし、あなた自身も述べておられるように、相対論が静止エーテルにもとづくローレンツの理論と異なるというかぎりにおいてはそうではありません。私がマイケルソンの実験ですばらしいと思っていることは、干渉縞の位置を光源の像の位置と比較した天才的なやり方に対してです。こうして、われわれが地球の自転方向を変えることができないという困難を、彼が克服したのです。敬具

アルベルト・アインシュタイン」

(『歴史をつくった科学者たちT』より)

この曖昧模糊とした手紙の中で、アインシュタインは相対論がローレンツ理論(アインシュタイン自身のローレンツ収縮を意味すると思われる)と異なることを示した、ということではないと言っている。これは、生じた干渉縞が「時の遅れ」によるもの、という理解のみに留めたいとする気持が表れていまいか。「光源の像の位置」という取るに足りないことを褒め、注視点を逸らそうとしたような、よくマジシャンが使う手を思わせる。苦渋の手紙である。

この実験は1919年の日食観測で、エディントンが恒星からの光を観測した結果、一般相対論の予言どおり重力場で曲げられることを証明されたということに触発され、エーテルを通る地球の自転を検出しようとマイケルソンたちがオドンネルらの技術協力を得て行ったものである。このときマイケルソンは健康を損なっていた。新聞社の過剰な報道にも、彼は辟易していた。0.25の干渉縞のずれという明確な結果を得たにもかかわらずマイケルソンは

「地球が回転していることをただ示したに過ぎない」

とそっけないコメントを残している。この値はマイケルソンの期待したエーテルの存在を証明したことになっていないのかもしれない。あるいは、この実験では絶対空間に対する地球の運動速度が求められるわけではなかったためかもしれない。もう一つは、エーテルが存在するとすればそのエーテルがリングの中を流れていることになり、マイケルソンが確信していた絶対空間であるという理念にそぐわなかったためかもしれない。しかしこの実験は、我々が示した「光の仮説」を美しく証明している。

加熱したマスコミは相対論者のコメントを「0.25は無かったに等しい」とも、「自転運動により時間の収縮が生じた」とも聞き取っただろう。報道の加熱のさなか、思い込みの通りに解釈されてしまう心理上の「確証バイアス」が働いて、いかなる結果も相対論を証明するものだとされたことは想像するに難くない。相対論の矛盾を示すはずの実験が行われるたびに、実験結果は相対論に一致するものだと報道された。そのほうが聴衆にうける。相対論は不動のものとして固められていったにちがいない。   (『幻子論』新思索社刊)
 

 次に、次のページで上のことを実際に検証しておこう。

  熊野宗治