論評      相対論は間違っている

なぜアインシュタインは天才ナンバーワンか
実 体  相対論の洗脳には暴力はない。その代わり相対論に関する信徒たちのおびただしい数の出版という、権威誇示の繰り返しがある。懐疑というほころびには、たちまちにして膏薬が貼られる。また、相対論は政治に利用されることはない。以上の点を除けば、相対論の布教は洗脳とほとんど違うところはない。エドワード・ハンターの「洗脳」に相対論を重ねてみよう。
 「意図するところは科学に関する一般の考えを根底から変え、外からは相対論の破綻を見えない形で、相対論者や民衆を反抗しないロボット人間にすることであり、ゆるぎない信念と思考過程をつくり出して、信じ易かった科学者や民衆の意識の中に挿入することである。その成果は、決して反逆することがなく、常に命令に忠実な民衆とコチコチ物理学者に固めることである」
 外からは見えない形で…について触れてみよう。よく相対論に寄せられる懐疑に関して膏薬を貼る目的の書物たちの回答は大方、曖昧かつ抽象的なもので、結局は天才科学者によるものであるから、相対論は誤りのない絶対的に真理なるものであると括っている。具体的な詳しい反論を私は見たことがない。反論としての証拠は何一つ示されない。空間が曲がるというオカルト的説――ありえない事実――に対してそれを否定する根拠をわれわれも簡単に示すことは出来なかった。できるはずがない。アインシュタインはそれを見越して相対論を書いたのである、その意味では天才的であった。そのあり得ないことを示す証拠が挙げられないことをもって、それが相対論の正しさを保証するものであるかのように示すことしかしなかった。
 権威ある熱心な信者、カール・セーガンの言ったことに耳を傾けてみよう。
 「あっけにとられることだが、私たちが光速に近い速度で移動すると、私たち自身の質量は無限に増加し、厚みが運動の方向に対して零の寸前まで進み、私たちにとって時間は、もうそれ以上は望めないほど停止状態に近くなる。時間が止まるなんて、そんな馬鹿なことがと思う人も大勢いて、一週間か二週間に一通は、この事実に対する抗議の投書を私は受け取っている。だが、これは、実験ばかりでなく、「特殊相対性理論」と呼ばれるアインシュタインの水際立った空間・時間分析からも当然の帰結として出てくる最終的に真実な結論なのである。このように、常軌を外れているように見える結果が出たとしても、問題ではないのだ。いくら確かだと私たちの常識が『証言』していることでも、超高速での移動中には疑わしいものとなる(『サイエンス・アドベンチャー(上)』(カール・セーガン)42頁)」
 この信者ぶりでは、とても動かしようがない。「常軌を外れていようと、正しいものは正しい」としか彼は言わないのだから。相対論をどんな理解の仕方をしていようと、その相対論に対していかなる疑いもしてみようとはしないのである。
 相対論学者が言う正しい理解からすると、上のセーガンの理解は実は誤っている。その間違った理解に立って、天才アインシュタインの理論を「真実な」と賞讃しているのである。実を言うと筆者本人も同じ間違いの上に、以前はアインシュタインを敬っていた。もし私が彼から見て光速で運動すれば、私の質量が無限に大きくなる、と理解していた。
 「もし彼または私が、私から見て彼が光速で運動すれば、彼の質量が無限に大きくなる」というのが相対論の正しい理解である。BからAを見た理論が相対論なわけである。だから、私が光速まで速度を上げれば私の質量が無限大になる、ということではない。もしそうだとすると、私は何に対しての速さか?ということになる。それには、その絶対座標が必要になる訳だが、アインシュタインは絶対座標の存在は認めていない。私自身がいかに(何かに対して)光速であったとしても、自分が手にした物指にも自分の質量にも、私には何の変化も認められないのがアインシュタインの言う相対論なわけである。セーガンも、以前の私も、間違った理解の上から尊敬していたわけである。そして今、私はその理解し直した相対論も間違いなく誤りである事実に2005〜06年(『宇宙論』(後の『幻子論』)の執筆中に)行き着いた。

先に掲げた相対論の特徴のうち、2番目以降は今更どうにもならない。1番目の「錯綜していて難解」、理解不能な理論であることにすこし触れておこう。
 1.ローレンツ変換
 相対論では2つの慣性座標間の変換に斜辺としてCtを用いている。元々二つの座標間で光速を介入させる必要などない。第二に、光速一定の仮説のもとに、これに時間tを乗じたCTの次元は(L/T)×Tで、たしかにLとなる。しかし、光速が定数なら長さに時間を用いたに等しい。ここに物理学上のまやかしがある。
 2.ローレンツ短縮
 変換に光速を用い、マイケルソン実験を考慮すると、光速一定の仮説のため運動につれ長さが短縮するとした。実際には光は相対速度となり、物が短縮することはない。短縮を証明する実験は存在しないが、陽子シンクロトロンの実験は、現実には少しも短縮しないことを示している。
 3.時の遅れ……………「運動するものは時間が遅れる」は嘘。
 運動の速さのために時間が遅れることを示すいかなる実証も存在しない。クリフォードの動く実験室の思考実験では、光速を一定とし反射回数を時計としたことに詭弁がある。
 時間が延びた証拠としてよく示されるのが、平均寿命では届かないほど上空で生まれた短命の粒子が地上に届くのは、高速のため時間が延びたからである、というものである。しかし、そんな奇跡が起こるよりも、たった1桁ほど長寿の粒子が、たまたま地上まで届いたのである。平均寿命という不確定の上に、いかなる粒子も平均寿命でなければ届かないかのような詭弁で済ませている。
 だいいち、時間というものは人が変化の速さを比較するために、勝手に考えついた概念に過ぎない。自然界に存在するものでもない概念を、自然界の実存である運動という現象が延び縮みさせるわけがない。
 4.質量肥大……………「運動するものの質量は増す」は嘘。
 運動速度が増すほど質量がエネルギーに変換するため質量が減少する、というのであれば筋が通らぬこともないが、増すというのだから根も葉もないことであることは、それだけでも分る。アインシュタインも、それでは質量保存の法則との関わりはどうなるか?の疑問には黙している。
 5.相対論者間の矛盾
 質量肥大も時の遅れも、Aから見たBに起こることである、というのが相対論である。ところが相対論者の中には、AがBに対して相対速度をもっていればA自身が質量の増加を起こす、と主張するのである。両者は互いに矛盾している。もしも後者の方が正しいとするなら成るほど、自らの加速によって質量が増し「光速を超えられない」は成り立ちそうである。前者の場合からはこれは導かれない。しかし、後者であるとすれば、Bがいなくなったらその速さは何に対してか?不確定となる。こんなに矛盾だらけなのはもちろん、真実は両者とも誤っているからである。
 6.光速不変則
 各々の運動速度が互いにどんなに異なる観測者たちから見ても、常に光速はCである、とする相対論の大前提自体が間違っている。もしもそうなら、なぜドプラー効果は起こるかにも答えない。この基礎の上に相対論は築かれているから、これが誤っているとすれば相対論の全てが崩れることになる。そして、光速は一定ではなく、実際には相対速度として観測されたことを1925年の、一般には余り知らされていないマイケルソン−ゲイル−ピアソンの実験は示している。(『幻子論』新思索社刊)
なお、E=m
は相対論からは導かれない。

  
   熊野宗治