論評   相対論は間違っている
なぜアインシュタインは天才ナンバーワンか

相対論が受け入れられたわけ

マスコミの世界ではいかに視聴率を上げるかで、ジャーナリストの腕前を評価される。それゆえ、報道内容が正しいかどうか、正義であるか悪魔的であるかも、えてして問題にされない。いかに興味がもたれるかにかかっている。それが社会の文化秩序によい影響があるか、堕落させるものであるかにも、さして傾注されない。
 民衆を最も巧みに操作した圧制者の一人はアドルフ・ヒトラーであったことに異論のある人は少ないだろう。巧みな洗脳師であった。大衆の前に直立して、「最も優れた民族」、「わがドイツ」と連呼して酔わせ、申し分のない角度で腕を突き出し、くり返し「ハイル・ヒットラー」と叫ばせ、国民を熱狂させた。人の喜ぶ単純化によって、大衆を歓喜させたのだった。
 大衆は大衆の三特性と言うべき習癖を持っている。第一は、単純で理屈のないことに引かれる。第二に、趣味は低俗であり、ゲテモノ食いである。第三は、霊能力、お告げ、慰めを好む。
 第一の例は「空間は曲がっている」、第二の例は、公開処刑に集まる群集。第三の例には枚挙にいとまがない。これらに共通した特徴は、これらによる断言や発見事実には理屈がない。それはどうにでもなり、従ってそれが誤っているか否かについて反省を促し、反証を示すことが出来ない。洗脳はこれら三特性を巧みに利用する。まさに相対論もそのようであった。
 その秀でた特徴は、単純さである。大衆は難しい理屈を好まない。相対論は不合理と混迷と煩雑さによって、学者らの難しい理屈や審判をはねつけることに成功している。これらさえ撥ね付けてしまえば、あとには大衆が好む単純性のみを残すことになる。
 相対論はいかに「単純化」に成功しているかを見てみよう。
 空間は曲がる
 速いものほど重くなる
 速い者は時間が遅れる
 何者も光速を超えられない
 光速は誰から見ても不変
 これらは極めて単純である。その特徴はカルト的である。理屈こそ科学の要点なのに、それを外すと何もない単純なものになる。これらはこれまでの物理学の積み重ねを踏み躙るものであるが、これらの最後のものを除けば、どれへもすぐには反証することができない。それには理由がある。これらは科学的頭脳からは、生まれないものだからである。物理学を理解していない者でなければ思いつかないことばかりである。記録によれば、アルバートは学生時代にも物理学をよく理解していなかったらしい。(『それでもアインシュタインは間違っている』F・Mカナレフ 第7章(二)「アインシュタインは物理学を知っていたのか」)
 最も大きい被害は、この他愛ない悪戯が近代の物理学を混迷と不安に封じ込めてしまったことである。現代の私たちが求められることは、その陰鬱な神がかりから抜け出して正道へ戻り、溌剌たる真理への旅を再開することである。

 相対論が受け入れられたわけ!それは相対論がよく理解されたからではない。解らなかったからである。それが偉大な物理学であると解った人はおそらく一人もいまい。にもかかわらず、アインシュタインは偉大な学者になった。例のあの特性をもった大衆と、真の物理学者とは言いがたい一部の、物好きな学者たちの両方に支えられたからである。
 なぜ大衆はこれを支えたか、そこにいくらかの同情を覚えないわけではない。複雑な社会通念に取り巻かれた民衆にとって、規則や法律や儀礼に縛られる現実からまったく離れた、学問という世界の転覆は、さぞかし胸のすくような清涼剤であった。何も考える必要はない。大方の科学音痴からすれば、そのオカルト的相対論が、難しい理屈ばかり言う科学者たちの積み重ねを一蹴して、全く新たな、分りやすく信じるに面白い、霊的物理学を一人の科学者がやってのけてくれた。さだめし、痛快なことであった。
 そしていまだにアインシュタインが偉大な物理学者であるのは、いくらかの良心的な物理学者がその誤りを説き聞かせようとしても、大衆にとって理屈などどうでもよく、抱いてきた夢を壊されたくないからであろう。マスコミもあえてそんなことをしたがらない。
 しかし、正しい学問の進歩のためには、良心ある物理学者たちがどうすべきかは明らかだろう。

  
  AIU Planners Co., Ltd. 熊野宗治