光速の背景  35 次ページ

 第1章 輝かしい発見
沸騰する温度、約4Kまで下がったとき突然、水銀の電気抵抗が消失した。操作ミスでも、導線のショートでもなかった。191111月、これを発表する。その後、鉛と錫の電気抵抗もそれぞれ7.2K、3.7Kで消失することがわかった。
 鉛の線でつくったコイルを磁石のあいだに置いて温度を下げ、超伝導状態にしてから磁石を取り除くと、ファラデーの法則に従ってコイルに電流がおこる。常温でならその電流は電気抵抗によってジュール熱となって消えるが、超伝導状態では流れつづけたのだった。1914年、オネスの実験によってみつかったその電流は「永久電流」と呼ばれた。マサチューセッツ工科大学でこしらえられた超伝導リングの電流は2年半たっても減衰していなかった。


 直観的合理性が二度否定されても、次には認められることもある
 1925年  電子の自転の考え方 クローニッヒ

 1924年、ハンブルグ大学のパウリ(19001958オーストリア)は、原子モデルに関する「パウリの原理」と呼ばれる論文を発表した。パウリはミュンヘン大学でゾンマーフェルトの指導をうけ、コペンハーゲン大学でボーアのもとで研究し、発表当時はハンブルグ大学の教授であった。彼の論文によれば、量子のひとつの軌道には2個までの電子しか許されない、という考えであった。この原理に興味をもったのが当時アメリカに来ていた若きラルフ・クローニッヒだった。
 クローニッヒ(Kronigオランダ)はパウリの論文から、電子も自転しているのではないか、と考え、1925年1月、パウリに話した。パウリにすれば、電子の自転というような古典的モデルは心底幼稚なものにみえたのだろう。そのパウリにすぐ否定されたクローニッヒはつぎにボーアの弟子ハイゼンベルクに話してみたが、そこでも否定され、ついに断念してしまった。パウリが否定したのは、もし電子が自転するとして、その固有角運動量を計算すると、電子の速度が光速を超えてしまうことからであった。
 一方、ライデン大学のウーレンベック(19001988オランダ)とハウトシュミット(190278オランダ)の二人も、パウリの論文を読んでクローニッヒと同じ考えに到達していた。パウリの論文には具体的な描写がなく、二人が出した仮説はクローニッヒの考えと同じ電子自転による角運動量だった。二人はライデン大学教授エーレンフェストに相談し、1925年末、電子自転に関する論文として発表した。それから2ヵ月後にも、二人はボーアの合意を得て『ネイチャー』誌に発表し、初めてスピンという用語が用いられている。この用語はボーアの発案であるという。
 パウリはこのスピン仮説に、当然、批判的で1926年はじめのボーアとの会話の中で邪教と言ってこき下ろしていたが、3月、トーマス(英)がスピン仮説は二重項問題を正しく導くことを示す論文を発表したことから、ようやく受け入れるようになる。
 トーマスからハウトシュミットへあてた手紙がある。「その仕事をあなたたちがパウリに話す前に発表したのは幸いでした。一年ほど前、クローニッヒも電子のスピンに関する仕事をして、それをパウリに見せたばかりに、パウリはそれを嘲笑したのです」といった内容である。 こうして大先輩に否定されたクローニッヒの電子スピンの概念はウーレンベックらによって世に出た。パウリの「ひとつの量子軌道には2個だけの電子が占める」は、「反対のスピンをもつ2個だけの電子が同一軌道に許される」と修正され、原子モデルの一応の完成を見た。
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