うに、発見とは不思議や疑問や矛盾に気づき、それを解くことであって、想像ごとを膨らましてゆくだけで自然の摂理の発見に至るわけがない。
想像論を膨らますのは誤りやすい方法であろう。その想像ごとの便利な道具に、数学がある。数学は広い意味では科学であるが、脳が働かす知恵の組み立て、あるいはそのメカニズムにすぎないから、すぐ自然科学とはゆかない。脳の方法論にすぎないおそれがあり、それだけでは物理学の根拠をもっていない。これは物理学と錯覚されやすい。観察と実験に基づかれる感覚や印象から、脳の計算システムのなかに取り入れられてはじめて、自然科学の材料になる。この材料に疑問を投げてはじめて、科学的思考活動が始まる。だから、科学するにはたびたび自然を観察し、たびたび自然に問うことが求められる。筆者はそのように考えている。大学の講義室だけにいてそれが可能であろうか? 机上のコンピュータのみでそれが可能であろうか? こんにち、理論だけでノーベル物理学賞が与えられるようになってしまったが、誤りはないであろうか。
それにまた、自分がどこにいて何を目指そうとするのかの計画もなければ、頂きを究めるという喜びも、決して味わうことはないだろう。
ところで、いま述べたことは物理を数学によって記述すべきではない、と言ったのではない。数学は物理を叙述する上で、きわめて簡潔に、明確に、正確に、表現する有能な助手である。優れた数学者たちによって代々得られてきた物理数学は、物理学にとって有力な手段となった。人間の脳がつくり出した便利な道具である。
しかしながら、わたしの意見はつぎのようだ。物理学の支えとしての数学は物理を述べることだけに仕え、むやみに物理現象の先導役をしてはならない。物理現象は神の計画であり、数学だけでこれに踏み込んではならない。間違った概念を抱きそうになる「数理物理学」が、単に物理用数学を意味するだけならともかく、物理の学説構築へ導こうとするのであるなら、神を恐れぬ所業というべきではないだろうか。親愛なる諸君、現代物理学というものが、数学をもって神の計画に先んじようとする性格を持つとすれば、その動きは真の物理を理解する上では妨げではないか。それゆえ、数学の活用に急がず、目の前の道をまず明確に捉えておくことが必要である。自分を騙すのもいけない。正しい悟性に達するには、正直な自分に背かないことだと、自らの体験を通しても、そのように感じる。
正しい方法は、自らが膨らませている想像に、自然からの厳しい制限を加えられても、それに合格していて矛盾のないことにあろう。そうでなければ、ただの妄想にすぎない。あくまで自然そのものに起こる現象を見つめつづけることが必要だ。ガリレオの自然落下物の観察、ニュートンの下げ振り実験、ファラデーの電磁誘導実験、アルキメデスの容積測定、ケプラーの法則への分析など、対象を注意深く見ることがわたしの教師である。人の知に頼るだけの想像は、人の脳だけに上る妄想にすぎないおそれがある。学習だけからは発見に至ることも少ない。発見はむしろ学習したことを疑うときに起こる。論理に矛盾のあるかぎり、疑問を追及しつづけなければならない。わたしも次のような実践をしてみた。 星が赤み掛って見えるのはその星は地球から早い速さで遠ざかっているからであろう、という考えと、光はドプラー効果によって波長が伸び、赤み掛るという事実とのあいだに矛盾はない。地球のほうが遠ざかるためのドプラー効果による、とすることは成り立たないことはすぐ分かる。なぜなら、われわれを四方から囲むすべての星たちから遠ざかることは、われわれにはできないからである。一方、地球から見てどの方角の星も赤み掛っていることからすれば、どの星も地球から遠ざかる速さをもっていることになる。ここまで矛盾はない。しかし諸君、それが正しいとすると、宇宙のなかで地球だけが光の座標に対して静止していることになるではないか。 |