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印刷用は        不定期便  第47号
 
不定期便 47 0111012

1000年必要か

 発行
011年10月12日
発行者
熊野宗治
 
  
反省のない人類 

  
相対論見直しに1000年必要か

実験事実の発表

私は相対論の誤りが認められ、物理学が物理学として健やかに発展することを願っていた。
 相対論のあちこちに見られる辻褄の合わない部分を見出し、これに代わる新しい解釈を提唱した。疑わしい仮説の中で辻褄の合わないことを実証しなければならない。それらのいくつかのことは実証例をあげ証明しえたと思っている。その他の大掛かりな実証実験は、貯えのない民間人には不可能に近い。

 こんなとき、願ってもない恵みが降りかかるという、思いもかけないことが実際に起こった。

 スイス・ジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究所(CERN)の実験棟から約730キロメートル、イタリアの地下研究所まで飛ばされたニュートリノが、光より早く到達したという実験データが923日、公表されたのだ。このニュースの示すところは、相対論は誤りだとする小生の説を裏づけるものである。しかしながら、素直に喜べないものを私は感じた。

    この実験データを懐疑するすさまじい抵抗がたちまちに起こったからである。

 発表への抑圧 
私は喜びと不安を友人らに伝えた。友人らからの返信の中で、正隆君から(相対論の見直しに)1000年かかるか? という返答をいただいた。相対論の誤っていることが世間に認められるまでに1000年かかるだろう、と小生が言ったのは、半ば冗談であるが半ばは本気である。身辺のあるかたは5年くらい、ある友人はすぐだと言った。本当にそうなら喜ばしいことだ。しかし現実はそう甘くはない。

 相対論が見直されるのに1000年もの時間が必要か? それは真理の判定にどれほどの時間が必要か?という問題ではない。それを現代社会が理解し受け入れるのにどれほど時間がかかるかの問題である。現代社会がその鍵を握っている。
 あの発表があって、実験は信頼できるものか?という反撃がすぐ出された。研究者の発表に対し、通常その実験過程や方法に嫌疑攻撃が出されることはあまりない。

 相対論擁護者からの疑問
 @1987年、超新星爆発時のニュートリノが光と同時に届いた観測結果と違う。
 A最初から最後までニュートリノは生成できていたのか?

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 B発射と到達の地点に標高差があって、重力が違う。時間の進み方が違ったのでは? などである。

 私からの反論
 @について
 そのニュートリノは爆発時に飛び出したものに違いないのか?が第一疑問だ。仮に正しいとすれば、宇宙の16万光年という長距離を走ってなお同時に到着したとすれば、ニュートリノの速さは光速でなければならない。相対論では質量は光速で無限大となって、同時に届いたはずがなく、矛盾している。  また粒子とはいえ、物質である。そんな長距離を走って光と同時に着くには、宇宙での減速の機会の可能性を考えると、少なくとも出発時には光速を超えていなければ、1987年の観測はあり得ない。
 Aについて
 ニュートリノが他の粒子らと衝突して別の素粒子に変わっていないか?という疑問なら、事件に出会ったニュートリノはその時刻に到達し得ない。到達したニュートリノはずっと生成していたと見て、まったく疑問はない。この疑問は、@の観測を認める者の疑問としては自己矛盾である。宇宙のかなたから飛来したというニュートリノこそ、その生成の継続に疑問を持つべきだ。
 Bについて
 重力場によって時間の進み方が違うという仮定は実証されているのか? それが真実だとすれば、麓と山頂でずれてゆく時間はどうなるのか? 現在の麓と山頂の関係はどちらも秋である。100万年昔は何ヶ月の時間差になるのか?そのとき、麓と山頂で、それぞれの季節は夏と冬という具合にずれているのか? 
   厳密さで反論するなら、自らも厳密な根拠によって反論すべきである。

  なりふり構わぬ詰問。測定誤差ではないか? 粒子の発射時刻と到着時刻との差によって測る装置への疑問、これらには実験データを無効にしようという意図が見え、発表者は新しい報告への圧力や質問攻めに追われた。こんな目に遭うと思えば、相対論に障る事実の発表には慎重にならざるを得ない。しかし、発表すべきものを畳み込んでしまうことが起こるとすれば、その損失は大きい。こうして相対論に反する発表者には、弾圧といってよいほどの攻撃が降り注ぐ実態を見せたのである。


光速の謎とその氷解  

その圧力に押されて、発表からほぼひと月後には確認観測をし直すことになった。だが、長年貯えてきた膨大な実験データが、この数日間でのやりなおしで変わるわけあるまい。
 これまでに発表された実験結果によって、相対論の一つの結論「物は光速を超えない」が破れた。元々この奇怪な理論の起こった発端は「光速不変」という仮定にある。どんな動き方をしている誰にとっても光速は同じであるというのが「光速不変」である。
 音波の場合は、音源へ近づこうとする者には音は早く届き、遠ざかろうとする者には遅く届く。音源のほうがこちらへ近づく場合や、こちらから遠ざかる場合の音速はこの空気中――この場合空気は音波の媒質だ――で同じである。

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音波は音源をではなく媒質を静止座標として音速を持つからである。
 光波の場合はアインシュタインによってその媒質(エーテルと呼ばれる)は存在しないとされた。そのように出発して組み立てた理論が相対論である。これを進めると、先ほどの「何者も光速を超えない」が導かれる。
 その得体の知れない空間論に対し、我々の新しい理論は、光のエーテルは重力場である*とする。相対論の最初の仮説「光速不変」が破られるには光の相対速度が観測されたら最も明快だ。それにはその相対速度が、地球の重力圏から離れた宇宙で検出されるのが完璧である。その重力場(静止座標)は、太陽の移動速度および太陽系に附属するすべての惑星らから及ぶ重力場の移動速度のベクトル合成によって与えられているはずだ。その座標の求め方を小生は論文として完成し、日本物理学会へ提出しようとしたが、相
対論は正しいとして拒絶された現状にある。


 宇宙での相対速度検出
 宇宙空間で行うための観測器はマイケルソン干渉計でよく、なるべくは光路部を筒で覆わず、線材による組み立てが好ましいだろう。万有引力常数Gはきわめて小さいゆえ物体による重力場は微小なものとなるから、筒によって構成したとしても静止座標を太陽重力場とすることに大過はないと思われるが、より完璧を期すためである。
 実験自体は難しいものではないが、宇宙への打ち上げ費用の点で、なかなか実施に至らないだろう。実験への積極性がどうか?ということもある。相対論が崩れた場合の、各研究に与える影響が大きい。 
  著書は凋落し、講義内容の見直しを迫られる。研究経過の書き直しと実験のやり直しなど、大きな被害が予想される相対速度の検出など、歓迎する気にならないだろう。
  教育方針の変換という作業も必要になる。そのための教授や研究者による協力は消極的であり、むしろ逆圧力がかかるのではないか。


1000年かかると考える理由   

その1 学者の無言(沈黙)
 暗黙の密約すなわち沈黙時間の経過という冷却時間を置けばこのニュースも忘れられ、そのころまたアインシュタイン記念日での相対論書籍の大増刷があり、より立派で分厚い書物が出版されるだろう。

 その2 学界に新説の受け皿がない
  この発表の査読者がいない。査読されない。 査読されるのは、後からあとから上へ積み上げるものに限られる。したがって後戻りができず、1000年はおろか地球の誕生からやり直すほかない。

その3 物理学は硬骨化して行詰る
 物理学における現在の査読制度では新陳代謝ができず、体系を組み直すことができない。進化の能力を持っていない。学界を維持するために必要とする査読制度が学問の進展を阻んでいる。いずれ硬直化して行詰る運命だ。
眼を転じてみると、技術界には査読のような旧態の制度がなく、いかなる工夫にも自由があって、技術は実践が成功すればそれでよい。

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 技術は改良と実行によって進化が可能であり、進化の能力を持っている。学界に限らなければ物理学も発展の自由をもっている、と私は信じたい。
 その4 商業者と学者は利益が一致する
 メディアはまた売上増を目指して天才アインシュタインをマテリアルとして相対論を担ぎ出すことだろう。資本主義経済はこの貴重な商材を捨てようとはすまい。学者は自己の利益に一致するこれらのことに協調する。行政者が行革を進めないのと同様、自己の首を絞めることをあえてしようとはしないに違いない。

 かくして、――1000年後に起こるかは知らず――いよいよどうにもならなくなったころに偉人が現れ、大改革が行われる。そんな可能性しか、私には期待できない。私の著書が出てからもう3年にもなる。ところが、正式に論文を出そうとしたら、日本物理学会は迅速に拒絶した。
 相対論者が頼みとするのは、高速で運行しているはずの地球上の観測器によっても、光速はどの方角についても変わらないという謎である。この謎が解けない限り、なんとか安心していられるだろう。ところが私たちの新しい考えにある脅威は、その謎が解かれていることにある。
 文明の進化が遅れることに、大した問題はない。遅れをとらぬよう他の知的異星人文明と競わなければならないこともない。絶対的な時間に対して、文明の進み遅れはどんな意味もない。人類の身体的進化とも、ほとんど関係ないだろう。それよりか、誤りが早期に改められることは、これから多くの研究家がこれに関わって進める研究が無駄になることから救われることに意味がある。
  知る喜びと落胆との落差の問題である。真なるものへの輝かしい喜びであるか、偽物を喜んでいるのかの違いである。研究者たる者、後者には関わりたくないものだ。この願いは誰しも共通であろう。来る世代の人たちにそういう迷惑を残してよいものか?という問題だ。

 *註) 光のエーテルは重力場である。これが小生の唱える「光速の重力場法則」だ。

光は電磁波(電場と磁場が相互作用による変換の繰返しによって生じている)であり、電磁波は磁場の揺れ(相互作用)であって、その磁場はその磁場を作っている物体に静止している。仮にU字磁石を引っ叩いてやると振動し、その振動は波長の長い電磁波を作る。これはもちろん光の仲間である。目に見えない光も電磁波である。暖房の熱輻射も電磁波である。
 U字磁石から出る電磁波は、その磁石の持つ磁場に対して(磁石を静止座標として)光速で伝わるだろう。電磁波は電場と磁場とそれから重力場も変換に関わっていると私は考えている。その証拠に、磁場も電場も物に働いて引いたり押したりする力を現わす。このとき物体に生じさせる加速度は、重力場と同じものと考えてよいだろう。
  場のうち、電場と磁場はそれらの性質から、すこし離れても急減するが、重力場はほのかなものである代わりに遠くまで(無限遠にまで)及んでいる。 それゆえ、マクロ(光源に比して遠方にある)には光波の伝達場は重力場であるとみて大過はないだろう。

これらのことから考察すれば、光の場は重力場と見て正しい、とするのが新提唱である。

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 光速不変とされた原因であるマイケルソン干渉計はその重力場に静止していたのであって、それは太陽に対して秒速30キロメートルで公転運動中の計器ではなく、地球の重力場に静止した計器だったのである。光速がいずれの方角でも変化しなかったのは当然だったのだ。もしも干渉計が地球に対して運動しながら計測したなら、その速さだけの相対速度を検出しただろう。しかし静かな実験室ではなかった。それを現実に検証するには、機器が揺れないで支持される宇宙において行うのが完全である。