B   不定期便  第60号
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思慮のない偏った社説だ  928 


 私はこれを、半ば怒りを持って読んだ。この社説に共感して、というのではない。危機感を煽っているつもりであるらしいが、現に、ほとんどの原発が停止しているいま、原発に頼らないでも、立派に社会は稼働している。


 原発のメカニズムを簡明に言えば次のようだろう。
 放射性元素の核崩壊は核自体がおこしているものであって、人はそれを濃縮して互いに近寄せることによって、人為的に崩壊頻度が高められた核自体の連鎖反応として高いエネルギーを得ている。その速度を緩めるための操作とは、放射粒子を吸収して反応を弱める制御棒を、差し入れるのみである。

つまり、原子炉で制御できることは、最もうまく行った場合に、核の自然崩壊まで落とすことである。崩壊をまったく止めることはできない。制御システムに不具合を生じたときは核崩壊が暴走し、ついにはメルトダウンを起こしてしまう可能性はきわめて高い。このように高くなった放射線の嵐のなかに、(操作技師の)人命をいけにえとして投じることをするのでなければ、爆発の危険に対処することも出来ないことを意味している。

 だから、このような人道に反する産業機械は、建設してははならない。経済論や世論を勘案して決める問題、()()ない(ヽヽ)のだ。
自然現象である核崩壊を止める人工的な方法はない。
  これまでのところ、産業技術に関しておこる問題を、政治的判断だけでなんとか収拾できてきたのは、それが機械の暴走を止める方法を持っていたからだ。工場などの電動設備での問題なら、電源を切れば機械が動き出して起こす事故は防ぐことができよう。微生物や薬物なら、密閉したビンなどの容器に入れておけば、手にとってみても安全だ。高圧蒸気なら弁で閉じられる。自動車なら燃料を断てば止まる。エネルギーを提供する機械はみな、なんらかの危険性を伴うものだ。「利用のためには危険が伴う」として、大抵のことを容認してきたのは、これらのものはその危険をいつでも断つことができるからで、原発だけはそれができない。放射性元素の核崩壊は、人工的に止められない、原子核が持つ自然の性質だからである。

「原子力安全庁」構想が持ち上がったことがあるが、この庁の実現は、原子力開発を続行することの基となる。政治の性格上、省庁ができて、それを否定する計画が考慮されたためしがない。これまでのように、危険には安全対策で克服できると考えるだろう。参考意見は御用学者から、ということになる。
 ――人間社会の最も大きい危険は、物理学を学んでいない分野の人がこの社会を構成し運営していることにある。
 かつて広島で被災したある人が、「兵器としてでさえなければ」という思いから、「原子力の平和利用をよいことと信じてきたことが口惜しい」と、何十年ものあいだ自分が間違っていたことを口惜しがっていた。
 核物質に人が近づくことはできない。あの白い服は気休めだ。汚染環境では、裸でいるのと同じだ。せめて現場を離れたら、服に付いた塵から遠ざかるために、急いで脱ぎ捨てなければならない。

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