C 印刷用は       不定期便  第61号
   
 不定期便
 61号

 
間違った常識  その1 ――12.9.26
発行
2012.10月15日
発行者
熊野宗治
 
     

人はなぜ間違ったことを先へ進めてしまうのだろうか

図と自然現象      926 


数学で言うy=χ2を表わすグラフは一般に放物線と呼ばれている。

 図のように横へ(χ方向へ)1行ったとき、2行ったとき、3行ったときに応じて、上へ(y方向へ)1,2,3,…という数列をとるとき、また、これらのあいだにも実数値をすきまなく並べたものは、物を投げたときの飛翔軌跡に似ていることから「放物線(parabola)」と名づけられたと思われる。ただし実際の軌跡は地面のほうへ向かうので、この図を上下に反転した図となるのだが。
 しかし、まだこれは数学であって、物の飛翔運動を表わしていない。今の瞬間あるいはある瞬間に、それはどこにあって、どのような速度あるいは加速度をもち、それ自体どのような隠れた性質を持っているか?を表わしていない。実際の物体は常に、その時刻その時刻での1点としか見えない。
  この数学ではχ軸のひと目盛動くときの上昇の仕方が、まえの目盛に比べ同じ幅の次の目盛の上昇が大きくなってゆく。つまりこの図形の接線の傾き(変化率)が増加してゆく(変化率の増加)。

   しかし、この図形では実際のある時刻に、その1点のあるべき位置、つまり時刻と位置との関係は確定されない。。自然現象としては架空の式である。

 実際の落体はどのような位置をとるであろうか? ガリレオは最初、数学と同じく、落下速度は落下距離に従って速くなると考えた。しかし、まもなく彼は、落下速度は距離に比例するのではなく、時間に比例することに気づく。距離χでなく、tと考え直して、y=at2であることに気づいたのだ。増加率の比例定数は2aになる。しかし、まだ数学である。落下実験から2aは重力の加速度gであると確定される。つまり、g=9.8m/sec2と実験観測によって確定した。これで物理学になったであろうか?
 これまでの数学的数式に、自然から得られた自然定数gを入れた式は、なるほど落体の実際の位置を正確に記述する。物理法則に極めてよく一致する数理物理学となった。
 しかしまだ本当の物理学になっていない。それはなぜか? 

この式だけではなぜg=9.8となるのか、その原因は究められていない。これを理解することが本当の目的であり物理学である。このような運動を起こさせる原因は何か?という本質的なことは何も分かっていない。


 同様なことは、量子力学に代表される波動方程式にも見られる。これは力学ではない。三角関数や複素関数を利用した波動式は、あくまで数学である。あるいは幾何学である。数理上、あるいは幾何学上の計算過程としては厳格に正しい。
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しかしその図は、動くように見えても、これを起こさせる原因項目が入っていないから“波動ではない。そして、往々にして、方程式を変形していって出来上がった式に、物理に似たもっともらしい解釈が加えられる。しかしこれは物理学としてやってはいけないことだ。
 物理に式が付くのであり、式に物理を付けてはならない。

わたしはそのように考えている。落下方程式と同様、角度ラジアンを時間t(または時間の関数)で表わしたものはその時刻での位置を表わすから、かなり物理に似ている。しかし本当の物理は、幾何学ほど単純ではない。媒質の質量や弾性率といった、さまざまな条件によって、その図形はずれている。次第に減少する。この“変化を記述し理解することが物理学の目的である。

 それを起こさせている原因がなんであるかを重視することこそが物理学だ。

観察された現象の表皮的な面を数学によって展開しようとするとき、いつの間にか数学の規律のよさに酔いしれる。つまるところ、いつの間にか物理学の道を見失っている。ゆるぎない物理学だと思い込んでしまうのであろう。たとえばローレンツ変換式がそうである。しかしあくまで、物理学の本質は自然の変わらぬ性質――自然法則――の発見にある。いかなる人にとっても、自然の真実こそが物理学における真実である。その概要を数学で記述することは多く可能であろうが、できないこともある。それは数学ではなく自然現象だからである。


 次に実際の現象から考えてみよう。

   次に実際の現象から考えてみよう。

  光がもつ物理     926
 
 遠くから近づいている列車の音がレールから伝わってくる。稲妻が走ってから雷鳴が空を伝わってくる。
われわれは音を波であると解析した。鉄や空気を構成する隣り合った分子たちの運動が次々に伝わって
ゆく波として捉える。そして、それで正しいであろう。波を伝達させる粒たちを媒質と呼んだ。分子や原子は、質量と大きさとを持つ物ヽ質ヽである。物質の運動が伝わってゆく波というものの媒質は、たしかにやはり物質だ。音とは物質の運動である。物質だからこそ、その運動にいたる加速度を持ち、変化のための時間が必要となる。波のパラメータに時間を持つ原因である。


 この常識をわれわれは誤って援用し、光は波であると知ったとき、波ならそれを伝える媒質があると考えた。そして、大いに誤った。
 物質ならずとも“変化あるところ “波ありなのだ。光に関して誤った原因は、音という波を伝えるものが物質であったことまでをも援用したことだ。あらゆる実験によっても、光波に媒質としての物質を見出すことができなかった。物質が存在しなくても光が伝わることを知るや、物質を取り除いた無の空間をエーテルと呼んで媒質とした。ここに思慮の不足がある。
 エーテルに目印をつけることができなければ、数学上の、つまり仮想の座標をあてがい、数学で解こうとしたのであった。あまりに原始的な思考は、物理を無視した相対性理論という空想論を産み出してしまった。さっき述べた魔術的数学に迷ったのだ。われわれは心がけて、真の物理学へ戻らなければならない。エーテルに目印をつけることができなければ、数学上の、つまり仮想の座標をあてがい、数学で解こうとしたのであった。


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  あまりに原始的な思考は、物理を無視した相対性理論という空想論を産み出してしまった。さっき述べた魔術的数学に迷ったのだ。われわれは心がけて、真の物理学へ戻らなければならない。


       踊り子    
Edgar Degas

重力場とは踊り子が着るチュチュのようなものだ


物の振動である音の媒質が物質であるなら、電磁波である光の電磁振動を伝えるものは磁場であるか、電場であるか、さもなくば重力場であるかにちがいないと、なぜ思いつかなかったか? 光の媒質とは、無の空間でも、仮想的な座標でもない。私たちはそのことに、もう気づかなければならない。

そもそも時空というような複雑で面倒な空間で考える必要などなかったのだ。これに気づくなら、自然という、現実に起こっていることの叙述に、仮想的な相対論が適用されるわけがない。
 私たちの新しい考え方、“光速の背景”こそが光の持つ真実だ。相対論もまた、間違った常識の典型的な実例であった。

   ついでに、わたしが常日頃感じていることを付け足しておきたい。人間社会は社会構造上、物事が間違った方向に進むことを避けることができない。
 これからそのことをもっと掘り下げてみたい。前回の“原発ゼロは非現実か?はそのような例の1つだ。
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