C 印刷用は      不定期便  第76 
       不定期便 76 013年7月7

     物理学の別見 3
      光速の謎に答える 1 
発行
2013年7月7日
発行者
熊野宗治
 
 前回、光の絶対座標がどのように決まってゆくのかを考えた。おそらくこうであるという確からしい方程式も見つけた。74号あたりで、「新しい考え方が今の諸問題をいかに多く解決するか」について、とりまとめてみようとしていたのだった。


 前号までに分かったことは、光はどこを走るかというに、われわれの銀河系のような星雲が点々と宇宙に存在し、それらの傍では、「その星雲が光の場であるかのように」そこを静止座標として、光は光速cで走るだろうということだった。
 しかるに諸君、宇宙空間をはるかに旅する光線は、星雲らの運動につれて、針金のように曲がりながら走っているわけだ。われわれはその針金のような光線の軌跡を、直線であると思わざるを得ない。しかしその曲がりはわずかだ。秒速30qで公転している地球を掠める光は地球重力場に乗って、距離1万メートル(10km)走ったところで横へ(あるいは前後に)最大1メートルずれる程度だ。MGP実験で見た地球自転という遅い速さによる曲がり(ずれ)は10万キロメートル行って1センチというわずかなものだ。
 いよいよ今回は、第73号で挙げた問いに回答を試みよう。

(なぞ)だった光についての問答


光速の基準を空間のどこに採るかで生じた矛盾


 ・1 
光は、何に対して光速cをもつか?

    飛行機の中、走る列車の車中、地上、太陽中心の宇宙空間、これらのどれに対し光は光速cを持つのだろうか? どれでもない。
 また、相対論が主張しているような、「どの慣性系座標に対しても」でもない。質量たちのつくる重力場に対して、である。
 つまり、重力場が光の静止座標だ。その重力場に人が勝手に持ち込んだ計算図表のような座標系は、光たちにとって何の関係もない。その重力場を構成している各質量たちの運動速度が総合されて、一つの運動ベクトルとして、その空間の重力場は動いている。自然は簡潔だ。
 各質量の運動速度がその空間の場に及ぼしている影響は、その質量が大きいほど、またその質量に近い空間ほど大きい。


 車中での光の速度は?

 乗客の眼には、列車の進行速さυと同じ向きに進む光はcより遅く(c−υ)、反対向きに進む光は速く(c+υ)みえる。(相対論では同じcであるとされる)。
 またその発光体の運動速さは、波を立てている船舶の速さが、その波の速さに関係しないのと同様、光速には一切関係しない。
 光のエーテルは車中ではなく地面(地球)の重力場にあるため、そのエーテルは車中では列車の進行と真反対側へ流れることになるからである。列車と同じ方向の光は乗客にとって車速の分だけ遅くなるが、地上の人が見る光は、走っている列車の速さがそれを補い、光速は結局cである。
   1
 
    不定期便  第75号
  地上に立つ人(地球重力場)にとって、どんな状況で光っている光についても、常に光速はcであることになる。地上に固定されていたマイケルソン干渉計が、光に相対速度を見出し得なかったのはごく当然だったのだ。
 また、走る列車の車中で、発光体に対し乗客がuで運動しつつ見れば、その乗客にとって光速はそれだけ変化する。彼にとってその光速はc±υ±uである。
 地上の人がuで走りながら見る光は、cではなくc±uで、重力場に対して運動する者にはその分の相対速度が生じることになる。走る人の能力がu=cを達成できるなら、その人にとって光速はc±uとなるから、2cにもゼロにもなり得る。uがcを超えれば光は見えず、uが光へ向かっていれば2cにもなる。飛行機が音速を超えられるのと同様、uがcを超えることは、何事もなく可能だ。音速を超えることができる人なら、さっき聞いたことを追いかけ先回りして、もう一度聞くことができる。その際体重が重くなりすぎることも、寸法が縮んでしまうことも、腕時計が遅れてしまうことも、心配しなくていいだろう。
 常識的に理解できる以上のことが、光の物理に関する事実である。


 走る列車の中で、光速は観測者にとって光速cに列車の速さが増されたものになるか?

 なる。地上の人にとっては、ならない。


 速さVで走行中の車中で、乗客に向かってυの速さで近づきつつある物体が発光した。乗客には光速はいかなる値で観測されるか?

 乗客にとって、列車の進行方向と同じ向きの光はc−V、逆向きの光はc+Vとなる。ベクトル表示で言えばc+Vである。発光体の運動速度υは、その光の速さになんら影響しない。
    同上の状況下で、乗客はさらにuの速さで物体から遠ざかろうとするとき、光速はいかなる値をみせるか?

c±V−uである。

・ 光速不変の原理は正しいか?

 正しくない。密度が一様な静止した場(光の静 止座標)に対してのみ光速は不変にcである。光の静止場(光の絶対座標と言い直してもいいだろう)に対して運動している観察者(座標)にあっては、それが慣性系であっても、光速は不変ではない。これが相対論との大きな違いだ。
 また、場の密度によっても、cは不変ではないだろう。もっとも、その詳細についてわたしには未知である。一般に電磁波の伝播速度cは
   c=√(ε0μ0)       6.1
        (ε0:誘電率、μ0:誘磁率)
なる式で与えられている。しかし、光速は媒質の密度にも因るから、この式では光速cの値を厳密に表わしえていない。わたしが思うに、ここに“誘重率”とでも云うべきものが加えられるはずで、それが
   c=√(ε0μ0*)      6.2
であるとすれば、*は、*=κ0/0 ぐらいだろうか。κ0は万有引力常数に関するもので、0は重力場密度に関するようなものだろうかと想像する。


 光速はなぜ不変か?
 運動している者たちにとって、音速はそれぞれ違って到達するのに、光速はどんな運動者にも不変なc≒30万q/secであるとされている。光速はなぜ不変なのか?

 光速は実は不変ではない。 光速不変は全ての人に刻まれた固定観念に過ぎない。それは最初のちょっとした勘違いから起こっている。
   2
 
    不定期便  第75号
もう少し多方面に亘って探究されていれば、こんな間違いは起こらなかったかもしれない。…もう少し。そう、もう少しだったのだが、それを早めに切り上げさせたのがアインシュタインであった。自然を仔細に観察することをやめて、簡便な憶測に走ったのだった。光速不変と決めると、数々の理不尽と矛盾が起こるが、その言い訳論議、つまり憶測の積み上げが始まった。自然の諸々の性質を頭で決め付けにかかった。曰く「時間が違う」
 曰く「速いものは短縮する」、曰く「速いと質量が増す」、…等々。
 光速が不変であると勘違いしたのは、すでに諸君ご存知の、マイケルソン-モーレィが見せた最初の実験に関してであった。
 マイケルソン干渉計は精密で優れたものだ。かれが期待していた値に反して、まさしく正しい結果を示していた観測値であるのに、当時不覚にも勘違いして驚いたのはマイケルソン自身だった。
 ちょっとした勘違いとは、マイケルソンは地球が光の場(エーテルと呼ばれていた)に対して、少なくとも太陽を中心とした公転運動をしており、すでに知られていたその速さ、およそ秒速30qで動いているから、公転方向に出た光は太陽方向へ出る光に対して秒速30qばかり遅い速さであろうと考えたことである。
 予想に反して、(ぼくたちからすれば)当然なことながら、計器を向けた方向如何によらず、光速にほとんど違いを見せなかった。そしてその結果をそのまま世間に発表したにちがいない。

諸君、諸君はもうお気づきの通り、ここでの勘違いとは、計器が公転運動をしているどころか、光の場に対してまったく静止していたことに気づかなかったことだ。思い込みとは解釈法の都合のいい一つに過ぎないものだ。
 その結果を伝え聞いた科学者たちが驚いたのなんの!

    この騒ぎこそが、早耳早口で鳴らしたアインシュタインの出番をもたらしたものだ。「光速不変の原理」の提唱であった。なぜ光速に変化が見られないのだろう、という物理的疑問の代りに、“光速は不変である”と素直に受け容れ、それに理屈をつけることに精出したのだった。言うまでもなくアインシュタインの特殊相対論のことである。その後、多くの研究者たちが、それぞれのアイデアを付け足している。憶測の積み上げは、分厚い何冊もの本になるくらいである。



私的メモ

わたしの座右の銘

 

疑問という進歩

疑問こそが進歩を生む 常識は疑え

正解は自ら考える者に与えられる

他見によって生きる者は他見によって滅ぶ

自らを救いたければ自力で考えよ 

2012.10.26 

 

  3