光速の背景  22 次ページ

 第1章 輝かしい発見
て利用され始め、新しい輪作が普及。18世紀に入ると農耕技術に著しい発展をみる。
 1820年までに囲い込まれた大農場は資本豊かな農業家に貸し出され、農業家は賃労働者を雇って経営を行なった。小借地農・小舎住農らは没落。生産手段をもたない賃金労働者の大群を形成する。
 工業製品の輸出も順調に発展し、貿易額は急激に上昇した。産業革命によって最初に大工場を出現するのは軽工業部門であったが、中でもその推進力となったのは新興の木綿工業である。1750年代から1760年代にかけて綿布の需要が飛躍的に増大。綿工業における技術的改良は1733年のジョン・ケイの“飛杼(とびひ)”の発明が皮切りとなって、はるかに能率的に製造可能となった。この結果、綿糸の供給が不足するようになり、要望に応えてハーグリーブスのジェニー紡績機、アークライトの推力紡績機、クロンプトンのミュール紡績機が次々に発明されるに至る。綿工業はこうした技術的改良を基礎に、初期の家内工業から小規模工場を経て、蒸気力を動力源とする大工場へと進展する。
 大工場の出現を可能にしたのは蒸気機関の発明であった。すでに18世紀初頭、炭坑の排水ポンプとして利用されていたニューコメンの発明による気圧機関があって、ワットはこの機関に改良を加え、蒸気力でピストンを駆動する蒸気機関を発明し、1769年特許をえた。従来、馬力や人力で動かしていた貨車に用いる計画がなされ、サイミントン、トレビシックらの実験ののち、1825年、ジョージ・スチーブンソンは蒸気機関車の実用化に成功。蒸気船の計画も1807年、アメリカ人フルトンによって実用化の一歩がしるされた。
 アダムスミスの《諸国民の富》は彼らのイデオロギーを体系化した。彼らは穀物条令、航海条令の撤廃に成功し、自由主義経済を推し進めた。産業資本主義の確立は同時に大量のプロレタリアートの形成を意味し、産業革命は労働生産性の上昇によって、国民総所得の増大をもたらしたが、このことは労働者階級の生活水準の安定した上昇を意味しない。むしろ、労働者階級の相対的窮乏化が強められた。


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 頑迷な現体制に抗しなければならないこともある
 1826年 オームの法則

 母国学府の権威たちに無視された気の毒な科学者、学校教師であったその人の名はオーム。ケルンのジェスイット派のギムナジウムで教師をしていたゲオルク・ジーモン・オーム(Geork Simon Ohm 17871854独)は、実験装置を組み立て、導線中を流れる電流をねじり秤の振れで測定しようとしていた。この装置はビスマス―銅の熱電対やねじり秤を組み合わせたもので、熱電対の一方の接触端子は100℃の湯浴に、他の接触端子は氷の入った容器に浸されていた。 当初ボルタ電池を電源に用いていたが、不安定であったのを、ベルリン大学のポッケンドルフ教授の勧めで熱電対を使ってみると安定したのであった。1826年1月、銅線の長いもの短いもの8種類を用意し、電流の流れを測ったところ、銅線の長いものほどねじり秤の振れが小さくなるという結果が出た。この結果を確認するため、導線の太さや線種を変えたりして実験をくり返した。結果はどれも、起電力が一定のとき導線を流れる電流は長さが増すにつれて減少するのであった。新しい発見にオームの心は
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