光速の背景  34 次ページ

 第1章 輝かしい発見
 光速の謎からの迷走
  1905年 特殊相対性理論 アインシュタイン

 光を伝える媒質(エーテル)を当時誰も検出できなかったことをうけて、アインシュタインは光速不変の仮説を主張し、1905年、特殊相対性理論を発表する。これはさらに、10年後、一般相対性理論として彼なりに結実させる。

筆者の意見では、この特殊相対性理論と一般相対性理論は、それを立ち上げた前提(ヽヽ)から誤っていると思われる、いまだにこれが定説とされている。この理論のため現在の物理学が歪められてしまっているとすれば、その弊害について警鐘を鳴らすのが、本書の副主題である。


 希にでも起こる現象があれば、それを起こす原因が必ずある

 1911年 ラザフォードの原子核構造

 20世紀に入ると、これ以上不可分とされてきた原子も、さらに小さい部分に分かれると考えざるを得ないようになり、いろいろな原子模型が提唱されようになった。ケルビンのモデルは、正電荷と負電荷の微粒子が一様に分布し、トムソンのモデルは正電荷が原子の大きさいっぱいに一様に分布して、電子はその正電荷雲のなかで同心円状に運動していた。日本の長岡博士のモデルは、正電荷は原子の中心に集まり、電子は土星のリングのように周回運動するものであった。
 ラザフォード(Ernst Rutherford 18711937英)は放射線物質のα線を薄い金属膜にぶつける実験を行い、正電荷が一様なら等方的に散乱し、集中しているならば、その近傍をすぎるα線(電子の流れ)の散乱は特に大きくなるはずであった。すると希に180度回ってもどるα粒子のあることが分った。原子の中心にはたしかな固まりがあって、その周りを電子が回転しているという原子モデルの基礎が確立されていった。


 地道な研究から
 1911年 超伝導の発見 カメリン・オネス

 1905年の特殊相対性理論や核物理学が騒がれていた蔭で、ひっそりと、もっと重要な物性研究が進められていた。その発端となったのは低温実験室の完成である。
 オランダのライデン大学は1877年ローレンツが初の理論物理学教授となった大学である。実験物理学ではその5年後にカメリン・オネス(Heike Kamerlingh Onnes 18531926オランダ)が最初の教授となり、1894年、気体の液化プラントを建設し、世界初の低温実験室をつくった。1898年にはイギリスのデュアー(J.Dewer)が水素の液化に成功した。ヘリウムはどんなに低温でも液化しないと信じられていたが、オネスは1901年からヘリウムに着手し、1908年、ついに液化に成功する。1910年ころには1.04Kの低温に到達した。液化機を製作したのはライデン大学のフリム(G.J.Flim)である。以後極低温での物性の研究が進められる。1927年ころオネスの弟子キーサムによって液化ヘリウムの“比熱”は2.17Kあたりで異変を起こすことが分かった。電気抵抗の異変についてはもっと早くに知られていた。オネスらが水銀――水銀の蒸留法によって当時最も純粋にすることができた――を低温にしていくと、ヘリウムの

       34 次ページ