光速の背景  63
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第3章 発見は誰にもできる
膨大な数の星たちのなかで地球だけが静止しているとは、はなはだ疑わしい。事実、もしそうであるなら天動説が正しいことになるが、現在では天動説はまちがいで地動説が正しいとされる。宇宙における天体の運動の事実と、地球だけが静止座標にあるとする説との間には、決定的な矛盾が生じる。従って、宇宙が膨張しているとすることは、自然の事実と矛盾しており、定説としてはならない。

だが哀しいかな、「宇宙膨張」はこんにち、“定評のある”原則となっている。その結果、『論理的思考の技術』のオリヴェリオも言うように、《先入観は価値の判断の領域外にあり、さまざまな状況が用意され、どんな場合にも似通った(ステレオタイプ)反応を示し、現実との関係を短絡的に考えようとする構図をもっています。そして、なるべく知能を働かせないでおこうとする考え方を反映しています。つまり、私たちが直接間接に経験したことに基づいて「あらかじめつくられた」価値評価の基準が、そのベースにあるわけです》というわけになる。しかし、わたしたちが正しい発見をするためになら、どんな小さな矛盾も、知らぬふりをするわけにゆかない。研究者たる者、変わらなければ化石になり、殻を脱がなければ成長できない。脳は常に使わなければ怠ける。聞いているだけではだめで、自分で考えなければ発見もなにもありはしない。


 悟性――未知に気づくひらめき

 その、殻を脱ぐとは、いかにして可能になるのだろうか。
 「アメンボはなぜ水を歩けるの? 泥んこの中にいるのに、蛙やドジョウはなぜいつもきれい? 雨の日、物干し竿の下にぶらさがって、水玉はなぜなかなか落ちない? なぜ茅の葉で手が切れるの? 月はなぜどこまでもついてくる? 空はなぜ青い? 蓮の葉を転がりまわる水の玉!」…どうして? 自然界の謎こそ、発見の種子なのだ。 これらはわれわれが子供であった頃、いつも口にしていたはずだ。いつごろからか、こうした問いかけを忘れてしまうようだ。
 「なぜ?」ではなく「どのように?」と教育の現場では教えることが、理科教育の基本とされている。しかし、「どうなる」という理科の指導はどちらかと言えば上から下への――例えば光は水に入るとき屈折する、というように藪から棒の――教えで、はなはだ面白くない学科である。30度傾いて水中に入射した光が水中では何度になる、という問題が解けても、光についての物理はすこしも理解していない。ただ数学的問題を解かせたにすぎない。こうした指導の、理科と数学との違いは、どこにもない。
 「なぜ?」こそ、最も初元、まだ先生さえ知らないことを知ろうとする、魅力あふれる本当の理科ではないか。この方法は、いずれは発見にいたる、優れた研究者を育てるにちがいない。疑いなくして発見はない。発見とは、知っていたこととは違うことに気づくことにほかならないのだから。“予感”とは、矛盾に感づき疑いつづける慣習から現れる。
 またわたしは思う。哲学と物理学(自然哲学)とのちがうところは、哲学が心象の思索であるのに対し、物理学は対象への思索であることにある。哲学は概念の相反する二面について対等に思索しうるが、物理学は対象の起こすことのみが全てであって、それ以外のものではない。観測する者の主観は自然現象にいささかの影響も与えない。いまにもそれ――自然のカラクリ――に気付こうとするときに、真理への予感を覚えるのであろう。
  われわれは時として、排除しえない「それ以外のもの」を研究の対象とし

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