特殊相対論への疑問

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疑問

                       
☆  ☆ 特殊相対論@への疑義 ☆  ☆  

いよいよ魔法にかかりそうになるところである。幻惑される前に宣言しておかなければならない。時の経過について物理学で取り扱うには、時刻が分れば十分である。「同時」を取り扱うことはめったにない。宇宙のあらゆる部分で、現在は現在という時刻である。アインシュタインが言う「同調」の概念は理論上、まったく必要がない。それを示しておこう。

「光を用いて」という現実論で推論するつもりなら、A、B二点というものも現実感をもって進めなければならない。光の速さを不変(かどうか確かめなければこの仮説と推論の正しさは保障されないが)と決めたら、これによって同調”を定義したとして、それと同時に不変なる二点間を定義しておかなければならない。A点もB点も、光が出発した時刻にあった場所から、光が帰還した時刻までの間に、違う場所に移動していないということをいかにして保障するのか?

筆頭にいう「定常系」とはなにか? 何度読んでも、私には明確にならない。強いて言えば、「ニュートン力学が成り立つ座標」ということらしいが、ニュートン力学はあらゆる座標系(加速度を持つ座標でもその明確な値を与えてあれば)で成り立つ法則である。

「同調」ということを2つの事件で説明するが、事件は2つでも、時間は1つしかない。気を付けて読むと、「私の時計が7時を指す…」とあるが、共通であるはずの時刻を「私の」と限定している! 続いて、違った場所では時刻が違う、というようなことを言っている。世間話ならともかく、物理学では時刻のことを「時計」と考えてはいけない。物理学では厳格な議論が必要である。理論上の運動も現象も、「時計の針に対して」ということではない。ある現象が起これば、その時という絶対的な時があり、時計という計測器や、それら相互間の同調の存在にはかかわりはない。相対論が変なことになる原因がここにある。

アインシュタインは、それでは実際的な時間の測定方法は、と説明を始め、A、B点にすべての性質が等しい時計があるとする、として、すぐあとに「AとBとに共通の時間は定義していなかった」と書いている。ほんの数行上には「すべての性質が等しい」と定義してあるのだが…。そこで、往き帰りの時間が等しいことをもって二つの時計は「同調」しているとする。どうやら彼の考えによれば、なにか連絡しあう手段がなければ「同調」はない、ということになる。アインシュタインはそれを「光」と決めた。

二つの関係が成り立つとして1.2.を挙げている。A、B、Cそれぞれの時計が申し合わせなければ同一の時刻を刻めないかのようである。もちろん、互いに寸分の狂いもなく進む複数の時計を製造することはできないが、理論に使用する時刻は、どこもただ一つの時刻でなければなるまい。すると、1.も2.も当り前のことだ。「同調」が「同じ進み方」のことを言うのなら、AがBに同調しているならBもAに同調する、などと言うほどもない。

ここで言われていることをまとめてみると、「同調」の定義は、光の通過をめいめいの時刻を読み上げて差をとって得た往きに要した時間が、同様にして得た帰りの時間に同じであること、としている。その際、往き帰りするのは光である。そして光の速さは、片方だけの時計で測った往復時間で往復距離を除したものとし、それは一定であるとしている。後で分るが、この式は往復の話だから正しい。

ところで、時間は概念であり、理論上の時間に同調を決めるシステムは要しない。彼は時間というものは時計が決めると考え、離れた二つの場所にはそれぞれ時計がなければならないとする。相対論の間違いの元はここにあると言えよう。たしかに、現実に「同時」を決めたい場合に、光によってしようと思えば光の進み方を考慮する必要がある。

しかし理論の中に計測システムまで考慮する必要はない。いかなるシステムを実際に使用しようと、共通な概念でなければ理論を立てる意味はなくなる。現実と架空を混同して進めるのが相対性理論の一貫した特徴であるが、不思議なことに、よほどの科学者でさえ、いつの間にか催眠術にかかってしまう魔術をアインシュタインはもっているらしい。      原文の続きへ 

  AIU Planners Co., Ltd. 熊野宗治