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 はじめに

第5章、6章は間違った研究へ進まないためにどのような道をとるべきかを考えます。もちろん、わたしたちの物理学を大切にしたいからです。
 さて、幼少のころ、わたしが「博士になる」と言ったとき、「下駄はかせに?」と、母はいたずらっぽく笑いました。なるほど博士号は学者業として糧を得るには獲得しておきたい看板ですが、物理学をしたいだけ、応用したいだけ、意見を言いたいだけなら、肩書きを求める必要はなかったのでした。
 そうは言っても、学ぶ以上は学位も得たいし、そのために努力するのは貴いことです。しかし肩書きが自然の真理に優先させるべき価値も、権利も、持つわけではないことに気づきました。学位がこだわりとなって、正しい道理に辿り着けない働きをしては何にもなりません。わたしがなまじっか学位をもたなかったことは、余念なくそこへ辿り着けるために幸いしたのかもしれません。
 本文中、代数学のような数式がやむなく現れますが、気の向かない方は式を跨いで前後の脈絡を読みとられても構いません。数式もまた、簡潔に正確に表現する言語にすぎません。その約束をまだ知らなくても大丈夫。大自然の法則は元来、言語で記述されていることではないから、そのような用語も数式も使わずに理解することは可能であり、それを読み解くことが物理学であると思っています。
 発見とは、一見非常に矛盾して見える、説明のつかない、謎めいた物理現象を解明することであると言えましょう。仮にあなたが年少の人であったとしても、諸君が読書によって一生懸命に理解しようとし、ほのかに感じたものは上級学へ進むにつれて発揮されてくると信じます。書物を読む人は必ず、なにか身についてくるものですから。
 また、文中、ところどころ、気分を転換するために挿入した部分があります。これらは、本論である新しい説の理解を深めるために有用なものたちです。しかし、読者のかたが気の向かない章、節を飛ばして読み進まれることは一向差し支えありません。
 超伝導の話は、この物語のつぎに、物理学の主要なテーマとして訪れるであろう、と筆者は考えておりますから挿入することにしました。この話は本論と無縁ではありません。それは元々簡潔で、分かり易かったA.W.B.Taylor著、田中節子訳『超伝導 新訂版』を参考書として、さらに短くまとめたものですが、この短い節の中に、ひととおり、必要な詳細も略すことなく凝縮してあります。超伝導の概要から細部までよく理解できるでしょう。しかし、これも、少しずつ読むことにして、先送りされてもかまいません。
 
 わたしはこの本で、従来説と(はなは)だ異なる説を提唱しています。人間社会では――法律論や経済論や幸福論や政治思想のように――A論に対するB論が尊重されてありえます。しかし、自然界の物の基本的性質を知ろうとする物理学だけは、Bという説がAという説に対立する場合、Bが正しければAは誤りです。Aを擁護してきた学者が、Aが誤りとわかってもそれは不愉快だからといって、Aでもよいという既得権を放置しておくことはできません。もちろん、AもBも誤っていることはありえましょう。
 もしも大学の都合で、誤っているはずのものを正しいとし、正しいはずのものを除外してあるとすれば、これは神の意に反します。神はそういった大学や分野に真実を明かさないでしょう。どんなときも自然は法則を変えることはないので、人は提唱されている学説につじつまが合っているかどうかで、大抵はその学説が正しいかどうかを判断できます。
  わたしがこの本で主として取り扱う、誤っていると考える2つの説を挙げます。それらはその前提とする法則(仮説)たちのあいだにつじつまの合

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