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 第1章 輝かしい発見
 1488年バルトロメオ・ディアスが喜望峰を発見。1492年、コロンブスは第1回航海にこぎつけ、バハマ湾のある島に到達する。サン・サルバドルと名づける。
 1498年5月、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って、インド航路からインド南部カリカットに到達する。1522年11月、マゼランの船団の一隻が世界一周を成し遂げる。

――ルネサンス(Renaissance――

 ルネサンスとは1516世紀、イタリアを中心とするヨーロッパ一帯に著しい文化の発展がみられた文化運動(文芸復興)である。古典文化の再興によってヨーロッパは中世から近世へ移ったとされる。イタリア都市はそれぞれ小国家を形成し、互いに対立して、ゲルフ党とギベリン党、大市民と小市民という具合に抗争が激しく、支配者は権力の維持拡大のため、市民の心をとらえようと都市を美術品で飾り、学芸を保護した。
 文学ではダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ。
 科学や技術の面ではレオナルド・ダ・ビンチ、コペルニクス、ガリレイらがいる。羅針盤の使用は大航海時代をもたらした。建築家ではベルニーニ、フィレンツェのブルネレスキ、アルベルティ、ローマのブラマンテ、ビニョーラ、ミケランジェロ、ロンバルド、サンソビノ、美術では、絵画のマサッチョ、ジョット、彫刻のブルネレスキ、ドナテッロ、壁画のアンジェリコ、ボッティチェルリ、16世紀にはいるとレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、官能美を展開したベネチア派にはジョルジョーネ、ティツィアーノまた、自然主義のカラバッジョ、装飾主義のカラッチ、フランスではフーケ、ドイツではデューラらがいる。

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ついには辻褄の合う考えに帰する
1543年 太陽中心説  コペルニクス

 アリスタルコス(280B.C)が唱えた太陽中心説は長いあいだ無視されていたのに対し、ヒッパルコス(150B.C)やプトレマイオス(150年)の地球中心説(天動説)が、何の疑問を抱かれず受け入れられてきた。それら天文学者たちはアリストテレス流の天動説を擁護するために、アリスタルコスの説がいかに理に合わないかを論駁している。プトレマイオスの『アルマゲスト』でも、地球は天空の中心であることを、アリストテレス的論議で証明してみせている。このような情勢であったから、アリスタルコス流の地動説は近代に至るまで、論壇で主流を占める宇宙論説となるには、証拠も不足し、説得力も乏しいとされてきた。
 しかし、地球中心説から惑星の運動を計算するのはやっかいであった。太陽と月は恒星の間を西から東へ一定して運動するが、他の惑星はしばしば進む方向を反転させたり、天球上を移動しながら明るくなったり暗くなったりすることが知られていたからである。
 そうしたなか、ポーランドの天文学者コペルニクス(Nicolaus Copernicus 14731543)は地動説天文学をつくりあげることに一生を投じた。若い頃、遊学先であった北イタリアの都市でアリスタルコスの説に触れ、刺激を受けたにちがいない。太陽を中心に置いた天文学を創りあげるために研鑚を積み、ついに1543年、彼の主著『天体の回転について』が出版され、それは彼の死の床にもたらされた。
 彼は1507年、アリスタルコスの考えに立ち帰り、地球を含むすべての
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