光速の背景  13 次ページ

 第1章 輝かしい発見
 スコラ哲学者ビュリダン(134058仏)は「投げられた物体が手をはなれてもなお飛び続けるのは、手の運動のインペトゥス(impetuous勢い)が物体に伝えられるからだ」と考えた。ガリレオは1592年、パドヴァ大学に移ってビュリダンのインペトゥス理論を知ったらしい。落体の速さは密度だけでなく、丸めた紙と伸ばした紙のように、形にもよることに思い当たった。浮力だけでなく媒体の抵抗も考慮する必要があって、落下運動の研究には真空中でなければならないことを確信した。
 アリストテレス派の学者たちは真空の存在を認めていなかったので、そもそも真空中での研究はありえなかったが、ガリレオは原子論を支持しており、“原子同士のすきまは真空である”という考えをもっていた。そうすると、水中でスローモーションでみるような実験は不適切で、物体は水の抵抗ですぐに一定の終端速度に達してしまう。
 動きをゆっくりと見せるものでガリレオが目をつけたのは振り子の運動か、斜面を転がる玉の運動である。斜面上を転がる玉は単位時間ごとに1、3、5、7と、移動する距離が増すこと、落下運動は斜面の傾きが極限に達した運動にほかならない、という結論を1604年に得た。その結果を「落下速度は落下距離に比例して増える」と考えていたことが誤りであることに気づいて、「落下速度は落下時間に比例する」という正しい法則に達するのが1609年である。気づくまでに5年も要したとは意外であるが、そのころ、かれは望遠鏡による天文的発見も行なっており、地動説の証明と普及に時間を奪われていた。
 その後、彼が1632年に出版した『天文対話』のために異端審問にかけられ、地動説の放棄と謹慎を命じられる。中断していた運動力学の研究を再開し、1638年、口述による大著『新科学対話』の原稿を書き上げ、オランダで出版された。
 もちろん、法王庁からはガリレオの再版を許すなという特令が出されていた。『世界の伝記―ガリレオ』からそのくだりを、略しながら引かせていただくと、オランダの著名な出版者ルイ・エルゼヴィルが1636年7月、ガリレオのアトリエへやってきた。
 「ヴェネツィアで閣下が新しい本の出版元をおさがしと聞きました。わたしどもの国では、出版を制限しようとする権威はまったく存在いたしません。」
 だが、出版の事実はじきに法王庁に知れるだろう。ガリレオの不安そうな様子をみたエルゼヴィルは言った。
 「こうしてはいかがでしょう、閣下。原稿の写しを作っていただいた上、わたしはそれを持ち帰り印刷する。ローマから何か言ってきましたら、“知らぬ間に異教徒めが写しを持って雲隠れした”と閣下がおっしゃる…。」
 久しぶりに笑ったガリレオは笑っているうちに一層おかしくなって腹をかかえた。そうだ、いっそのことこの本を法王がしてやられたリシュリーの国のだれかに捧げれば、ユーモアとしても最高だろう。うん、パドヴァ時代に家庭教師をしたことがある。フランスのノアイユ伯爵がいい。“ノアイユ伯へ”の献辞のあとに
「あらゆる本の刊行を禁じられたわたしであるが、せめて原稿の写しだけは保存したいと考え、ノアイユ閣下がローマへの訪問途次、立ち寄られたので、右のことをお願いした。閣下は、わたしの原稿を方々で見せられたらしく、やがてエルゼヴィル氏が、その出版を引き受けてしまったのである」
と付いて、ガリレオの笑いがまだ続いているような献辞ではないか、とある。 落下運動の法則の確立はフランス、オランダ、イギリスに芽生えていた若い科学者たちに大きなよりどころを与えた。ガリレオが他界した1642年(旧暦)の暮れにニュートンが生まれた。ニュートンはのちにガリレオの落下法則を中心とした力学の考え方をもとにして天体の力学の解明に成
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