光速の背景  14 次ページ

 第1章 輝かしい発見
功する。


 矛盾をきらう探究こそが真理に迫る
 1609年 ケプラーの法則 

 太陽中心のさらに正確な天体運動を描写したのがつぎのようなケプラーの法則である。
第一法則…惑星の軌道は、太陽を1つの焦点とする楕円である。
第二法則…惑星と太陽を結ぶ線分は、各惑星について、一定時間に一定面積をえがく。
第三法則…惑星と太陽との平均距離の3乗は、その惑星の公転周期の2乗に比例する。

 16世紀最後の1600年2月、プラハの近郊ペナテク城でふたりの亡命者が出会って、師弟の契りを結んだ。前ウラニブルク天文台長ティコ・ブラーエ(15461601)とその弟子グラーツ高校の数学教員ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler 15711630独)である。デンマーク貴族であったティコは、観測熱心のあまり宮廷作法を無視したため新王から追放され、ケプラーは改宗を拒んだため新市長から解職されていた。たまたまドイツ皇帝ルドルフ二世の向学心のもとで、この両人の共同研究生活が営まれだした。
 それは1年8ヶ月と20日しか保たれなかった。ブラーエの余命が意外に短かった。しかし、ケプラーはこの短期間に師の観測精神と技術精度を体得した。師が弟子に遺したのは、かの財産没収にさいしても肌身離さなかった火星運行の記録だった。それは長期継続的であったばかりでなく、厳密正確性において当代随一であった。
 ケプラーは生来病弱である上に貧乏と戦災にさいなまれたが、そんな生涯のなかでも、ブラーエの意志伝承を生き甲斐としたからこそ、逆境に勝ち得たのだという。ケプラーはグラーツ時代に『宇宙の神秘』という試論を著した。火星は公転周期687日ごとに太陽系空間の同一点に戻るが、地球はその間に10分の1周ずつ移動する。この移動点を結んで、まず地球の軌道を定めた。太陽からほんのすこし離れた位置に中心を持つ離心円であった。次に、軌道上の速度が、太陽の近くでは速く、遠くでは遅いことがわかった。これにはいくつかの誤った仮定と計算が含まれていた。たとえば「惑星公転の原動力は太陽内の磁気である」、「太陽の自転により惑星はたえず推進させられる」その他があって、これらの誤りが打ち消しあって第二法則を得た。
 だが、離心円としたのでは、ブラーエの観測値と8分もくいちがうので、卵形を仮定してみたが、第二法則を満たすには楕円でなければならない。すなわち、第一法則を確立した。ときに1609年のことである。
 第三法則は1619年のケプラー著『世界の調和』で公表された。これは中世神秘思想に覆われた哲学書である。その命題八として第三法則が埋もれていた。
 これらの法則の中には、いったい天体たちをこのような振舞をもって動かしている原因は何であるか、についてはほとんど考察されていない。そこでは観察主義という、科学研究の上では最も貴い立場が守られている。ただそれは精密描写に終わる懸念はあった。もっとも、太陽の磁気か自転という、それが正しいことではなかったにせよ、今にも何かに気づきそうなところまで来ていたのだが。
 この種の精密さはまだ解析幾何という数学的規則性を見出そうとするだけで、なぜそれは起こるかについては、――それこそが物理学であったのだが――考え及んでいない。そのかなり近いところまで来ていたのがケプ
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