光速の背景  15 次ページ

 第1章 輝かしい発見
ラーとガリレオであった。
 コペルニクスの前にはアリストテレスとプトレマイオスという哲学の権威、その権威に結びついたキリスト教会という2つの壁が、またガリレオとケプラーの前にも宗教による弾圧という壁が、立ちふさがっていた。
 しかし、この重苦しい中世哲学や宗教から、いまにも純粋学問へ開放されようとしていた。もうたす(ヽヽ)()を受け取るばかりの数学者ニュートンが待ち受けていたのである。ニュートンは、この天体法則とガリレオの地上実験とを結合して1687年、万有引力の発見へ導く。ケプラーの第三法則はこの万有引力を力学の基礎方程式とする解として与えられる。


 真理を喜ぶ真の科学者

 1648年 パスカルの法則 

 ガリレオの最後の弟子、トリチェリーとヴィヴィアーニは1643年、真空の実在を実験的に証明することに成功した。ガリレオの「いかに精巧な揚水ポンプでも水を10メートル以上汲み上げることはできない」という考えから示唆を得て、水の代わりに水銀を満たしたガラス管を水銀溜りのなかに倒立させると、果たして管の中の水銀柱は水銀溜りの水銀面上約76センチの高さまで降りてきて、その上に真空ができることを確かめたのである。
 トリチェリーらの発見はヨーロッパの科学愛好家たちに伝えられ、パスカルにも伝わった。ブレーズ・パスカル(Blaise Pascall 162362仏)は1647年、『真空に関する新実験』という著書をまとめた。「自然は真空を嫌うが、それには限度があって、水銀柱にして76センチ、水柱にして10メートルまでで、それより上の空間は真空になる」というのが、彼の考えであった。ところが、この実験の創案者であるトリチェリー(Evangelista Torricelli 16081647 伊)の考えを知って驚いた。トリチェリーは水銀柱が76センチ上がるのは、水銀溜りの上の大気が水銀を押し上げるからだと考えていた。パスカルはあわてて、自分の考えとトリチェリーの考えのどちらが正しいかを確かめるため、真空中でトリチェリーの実験を行なってみた。真空中では水銀はまったく上がらず、トリチェリーの仮説の正しさを示していた。
 自らのまちがいを知ったパスカルは、トリチェリーの「大気圧の仮説」の正しさを万人に示す実験を考慮した。山の上と下とで実験を行えば、大気の層が薄い山頂では、それだけ水銀柱の高さが減るはずだ。パスカルの義兄ペリエによって実現され、トリチェリーの大気圧説の正しさを明らかにした。パスカルにとって自らの権威を誇示することよりも、より真理であることを好んだのである。科学することの喜びを知った人であるといえよう。
 パスカルは、大気の圧力と液体の圧力には相通ずるところがあることに着目した。実はこれらの実験にはのちにニュートンによって気づかれる万有引力の存在が緊密に関わっていたのである。液体の圧力に関する一連の実験から、「流体内では、その一部に加えられた圧力はすべての方向に等しく伝えられる」という考えを1653年、『流体平衡論』としてまとめた。この本は彼の死から一年後の1663年になって出版された。その内容にはオランダのステヴィンがすでに1586年に発表していた仕事と重なるところがあって、パスカルはステヴィンの仕事を受け継いでいたのであろう。 
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