光速の背景  23 次ページ

 第1章 輝かしい発見
躍った。
 その4月から1年間、ギムナジウムを休み、実験についての論文をまとめあげ、翌年『数学的に取り扱ったガルバーニ輪道』と題する著書を出版した。そのなかで、実験結果をX=(a/χ)+bという簡素な式にまとめていた。これは本質的に「電流の強さは電圧に比例し、抵抗に反比例する」という現在のオームの法則を意味していた。
 オームは、その仕事によって、長い間の希望であった大学教授の地位が得られるかもしれないと期待した。貧しい職人の子として生まれ、苦労しながら入った大学も中退しなければならなかった彼にとって、大学教授は長い間の夢だった。しかし、このオームの研究を認めたのは、ライプツィヒ大学のフィヒナー教授やベルリン大学のポッケンドルフなど少数の科学者たちだけであった。
 カントに始まるドイツ観念論の中で弁証法を完成させたヘーゲル哲学は、論理学・自然哲学・精神哲学の3部門に分かれており、当時の物理学は自然哲学の一部にすぎず、そこではまだ、思弁を優先して、実験によるものを低俗なものと見なしている時代だった。だからこそ、オームも理論的に持っていきたかったのだろうが、ヘーゲル哲学を国家哲学として信奉していたドイツの教授たちは、一教師にすぎないオームによる法則を「空想の産物」であり、「癒しがたい妄想の結果」と批難した。大学教授の椅子どころか、失意のうちにベルリンを去るはめになった。それから六年、オームの研究はベルリンではなく、フランスやイギリスの王立学会で高い評価を受け、イギリスの王立学会では1841年、コプリ金牌で表彰された。1849年、やっと念願かなってミュンヘン大学教授になった。彼の書がドイツで出版されるのは、彼の死後30年以上を経過した1887年のことである。学府や国家や社会体制というものがいかに頑迷なものであるかを物語っている。


 一瞬の目撃が重要な発見へ導いた
 1831年 電磁誘導の法則 ファラデー 

 1800年の初年にボルタによって電池が発明され、電流が取り出せるようになると、1819年、デンマークのエルステッド(17771851)は電流が磁石に作用を及ぼすことを発見し、電気学・磁気学を一つのものにしていく端緒を得た。フランスのアンペール(17751836)は1820年、電流の流れる円形回路は磁石と同等であることを発見する。
 そんな中、イギリスの物理学者にして化学者であるマイケル・ファラデー(Michael Faraday 17911864)は、エルステッドとは逆に、磁石からなんらかの電気的効果は得られないものか、 いろいろと実験を試み、1831年8月、磁気が電流を生じさせることを確かめ、「電磁誘導の法則」として回路に電流を生じさせるには磁気は  あるかでなければならないこと見だした。
 ファラデーは“諸力の相互変化”という考えがあったようで、チンダルの著書『発見者ファラデー』のなかで、「彼の主要な研究は思索の流れによって結合されて」おり、「自然の諸力が一つであり転化しうるものである」という考えを抱いていたとある。その日4回目までの実験では、針金のコイルに磁石や電磁石を入れても電気は起きなかった。5回目に、電池に接続しようとした瞬間、磁針がわずかにふれるのが見えた。それまでにも動いたであろう一瞬をこのとき見たのである。この結果から彼は、針金の電流は他の針金に電流を誘発するが、それは一瞬だけで、ライデン瓶から出る電波の性質をもっていると結論し、感応電流と名づけた。。 
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