光速の背景  25 次ページ

 第1章 輝かしい発見

発表時期が名誉を別けた
 1838年 星までの距離 ベッセル

 恒星までの距離を初めて決定したのはヘンダーソンだが、ベッセル(Friedrich  Wilhellm  Bessel  17841846独)のほうが先に発表(1838年)したので、その栄誉はベッセルに与えられることになった。地球公転の視差によっていたブラッドレー、ハーシェルも試みているが、視差はあまりに小さすぎ、測定が可能になったのは望遠鏡の性能が向上した1830年代に入ってからである。
 イギリスの天文学者ヘンダーソン(Thomas Henderson  17891844)は南アフリカのケープタウンにある天文台で、ケンタウルス座α星(4.3光年、これが地球にいちばん近い恒星)の視差測定に成功する。
 ドイツの天文学者シュトルーフェ(Friedrich Georg Wilhellm von Struve  17931864)はベガの視差を測定し、11光年とする。
 ドイツの天文学者ベッセル(Friedrich  Wilhellm  Bessel  17841846)は白鳥座61番星の視差を測定し、56兆キロメートル(6光年)とした。
 発見したことをいつ発表すべきかにはむずかしいものがある。完璧を期すあまり発表時期がほんの一歩遅れたためにせっかくの成果が別の科学者の成果とされてしまう。後れをとらないために、少しぐらい不完全な部分を残しながら発表するか、完璧で立派な理論にまとめてから発表するかは、賭けのようなところがあって、ヘンダーソンにしろ、ヘンリーにしろ、名誉をとるか功績をとるか発表者の姿勢如何によることだろう。


 先取権をめぐる論争ののち認められる
 1842年 エネルギー保存の法則 マイヤー

 近代科学の成立期以前には、永久機関という、外部から力を供給されずとも仕事をする機械が模索されていた。そんなことが本当に可能であったら、石油などエネルギー資源の開発は必要でなくなる。今日ではエネルギー保存の法則から、そのようなことは不可能であることがわかっている。機械は力を節約するのではなく、力の使い方を変えるにすぎず、仕事の量は変わらないという原理はガリレオによって明らかにされた。この場合の“仕事”とは力をかけて力の方向にどれだけ対象物を動かしたか、すなわち ()×(移動距離) ”のことを指している。
 デカルトは運動量の保存を示し、ライプニッツは活力(質量と速度の2乗との積で、今で言う運動エネルギー)の保存原理を主張した。18世紀から19世紀にかけ、力学以外に、熱、電磁気、光、化学反応など、これら自然力や生命についても、自然の活力は連関するものという考えが広まってきた。産業機械の発達とともに、イギリスの物理学者プレスコット・ジュール(James Prescott Joule 181889英)は自然力の相互転化による保存を、熱の力学的当量などから、科学的原理として表明する。
  1840年、オランダ船の船医マイヤー(Julius Robert von Mayer  181478独)はインドネシアへの航海へ加わる。その航海中の体験から、栄養物は体温維持のほかからだを動かし仕事をするのにも必要である、…すると、熱と仕事は同じ力が形を変えたものだと考えついた。マイヤーは友人バウアーの協力を得て、気体の熱膨張のデータから熱の仕事当量を算出し、この論文は1842年、リービッヒ化学薬学雑誌に発表された。それが化学薬学雑誌であったため、ほとんど注目されなかった。

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