光速の背景  27 次ページ

 第1章 輝かしい発見
 メンデレーフ(Dmitry  Ivanovich Mendeleyev 18341907ロシア)は元素と元素の間に相関関係があるのではないかという着想をもっていた。当時の時代背景に、元素の秩序づけを暗示するような新説が時折り発表されることがあった。1869年春、かれは書斎のソファで寝入っていた。もう解決しそうな問題のため昨夜も不眠であった。その日、眠りのなかで、周期律表の浮かんでいるのを見た。目が覚めると、かれはいま見た表を急いで書きとめた。世紀の発見はこうして、夢のなかで生まれたという。
 周期律表はそれまで不正確であった原子量や電価を修正するにも役立ち、化学反応傾向を知るにも有用な、画期的なものであった。だが元素の配列を研究している彼をみる友人らは、「邪道の化学」と考え、無益な考えを捨てて正道の研究をすべきだと勧告しさえした。かれは主要論文を外国の科学者に送ったが、好意的な反応はほとんどなかったという。
 彼は周期律表の空白部には未発見の元素があるはず、と予言した。4年後の1875年、予言どおりガリウムが見つかった。これを機に周期律表の重要性が認められ、その後、1879年にはスカンジウム、1885年にはゲルマニウムと、周期律表の空所は埋められていった。
 よく「天才の発見は夢の中に現れる」と言われる。事実メンデレーフにもそう話しかけられた。そのとき彼は答えた。「夢をみるまでには、的確な目的意識をもった絶えざる研究と努力があったんだよ」。



ごく普通の異常なことへの好奇心が発見へ誘う
1895年 X線の発見 レントゲン

 フィリップ・レーナルト(18621947独)はクルックス管を改良した陰極管を用いて陰極線の研究をしていた。陰極と反対側にアルミ箔の窓(レーナルトの窓)を封入し、そこへ陰極線を当てると陰極線は箔を透過した。一八九四年、レーナルトは箔窓の外8㎝ばかりのところで蛍光紙片が光るのを観察した。かれはそれを電子の流れだろうと気にも留めなかった。
 翌年、ウィルヘルム・C・レントゲン(
Wilhelm Conrad Ro(¨)ntgen 18451923独)はレーナルトの実験を追試しようとしていた。かれが黒いボール紙でおおったクルックス管に陰極線を発生させたとき、実験机わきで光るものが見えた。それが蛍光紙であることはすぐわかった。スイッチを切ると、消滅した。陰極管から十分離れたところでも蛍光が認められた。ボール紙を裏返しても、裏になった蛍光面は光った。数ミリのボール紙をも貫通する、と考えるよりなかった。それは木製の厚い板も貫通したが、1.5ミリの鉛の板は貫通しなかった。手を差し出すと、スクリーンに手の外形や、さらに暗い骨の構造が写し出された。目には見えないが、物を通過し蛍光物質を発光させる放射線が陰極管から出ていることを確認し、1895年11月、X線と命名した。
 さらにかれは磁界によっても曲げられないことから、X線が帯電粒子ではないという結論に達し、また、蛍光板に代えて写真乾板を使うことにした。もう暗闇でなく、黒い紙で包んだ写真乾板をX線の通り道に置いた。鉛で遮蔽したブースを設け、ブースの外に置かれた装置から、ブースの窓を通ってくるX線を用いて写真乾板に写るものを現像した。当時知らなかったレントゲンを、この鉛のブースは、かれをX線被曝から守っていてくれていた。実験で、X線の通路に妻アンナ・ベルサの手を置いてもらった。夫人の手の骨格が、金の結婚指輪をつけてくっきりと写っていた。 12月末にまとめた論文は、1896年『ブェルツブルグ物理医学紀要』に公表され、手のX線写真は全世界の医学雑誌などに掲載された。
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