光速の背景  28 次ページ

 第1章 輝かしい発見
 ウィーン新聞では「…外科医は患者に苦痛を与える触診などしなくても複雑骨折の程度を知ることができるだろう。また、弾丸のような異物の位置を見つけるのもこれまでよりずっとたやすくなり…(『科学の運』)」と報じている。
 自分の発見は人類の共有財産であり、特許、ライセンス、契約などで足かせをはめられてはいけない、という信念から、自分の発見を特許にこそしなかったが、ノーベル賞その他の栄誉に輝いた。
 彼は演説の中で「自然界の感嘆に値する奇跡がごく普通の観察の中から現れてくる場合がよくある」と述べている。こういった新しい発見の喜びに関し、彼が演説で引用したところによれば、ウェルナー・フォン・ジーメンスはこう述べている。
 「知的生活は時折われわれに人間が享受しうる最も純粋で高貴な喜びをもたらしてくれる。それまで暗闇の中に隠蔽されていた現象が突然知識の光に照らし出されるとき、長い間捜し求めていた有機的結合への鍵を発見したとき、思考の連鎖の失われていた環が幸運にも見つけられたとき、発見者には勝利の喜びに溢れた幸福の絶頂感が訪れる。それまでの艱難辛苦に報い、より高次の存在へと彼を高めてくれるのは、その幸福感だけである。」(『科学の運』)。
 『科学の運』の著者アレクサンダー・コーンは、《発見へ導いたのは、何か異常なことが起こっていると確信したことであり、この観察を綿密に、体系的に追究していったことである》と述べ、レントゲンが洞察力を備えた人であると認めている。


幸運にもよることだが、その異変に感応する好奇心こそ
1896年 ウラン線 アンリ・ベクレル

 物を素透しにするX線の発見は、医療その他に明るい未来を暗示しているようだった。アンリ・ベクレル(Antoine –henri Becquerel 18521908仏)は、化学者であった父アレクサンダー・ベクレルの光化学の研究から、蛍光とX線との関連性に興味をもった。
 彼の実験室にウラニウム塩があった。日光に曝されたものは暗がりで光った。クルックス管の燐光壁から発生する放射に関するニュースがパリに届いた日、かれは燐光性物質なら何でも、放射線を出すものか調べる実験を思いついた。実験結果は違ったが、代わりに「私は思いがけない現象に出会ったのです」とノーベル賞講演で語っている。
 彼が写真乾板を黒い紙で覆ったものは日光に当てても感光しなかった。しかし、黒い紙で覆い、さらにアルミ箔で遮光し、その上にウラニウム塩を薄く乗せ数時間日光に曝すと、ウラニウム塩の層が写真乾板に写し出されていた。
 この結果を彼は、日光がウラニウム塩に作用し放射線を発生させ、それが包装紙を貫通し感光剤を黒化(感光)させたものと考察した。ところが、1896年2月26日の実験で、紙で覆った写真乾板の上にウラニウム塩を乗せ、日光を待ったが数日間も太陽は顔を出さなかった。3月1日、そのまま現像してみるとウラニウム塩の形像が写真乾板に現れていた。日光の助けがなくても、ウラニウム塩から放出する何かによって黒化される、…これはレーナルトやレントゲンが見た放射線によく似ている、と彼は考えた。しかし、放射持続時間はそれよりずっと長いものである。 次に、暗闇の中で5日間、ウラニウム塩に曝された乾板も黒くなった。ベクレルは黒い紙を通過し写真乾板に作用する放射線をウラニウム塩は発生している、と結論した。またそれは2ミリ厚のアルミ板を貫通し、あるいは箔検電器を帯電させた。つまり、この放射線は帯電粒子であるらしい。
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